勉強虐待とは、子供が望まない学習を親が無理矢理させたり、厳しい管理監督のもとに長時間勉強させたりすることだと思います。子供にこうなって欲しいと望む一方的な考えが裏目に出ると、虐待ということになるのでしょう。反対に子供の成長や教育にビジョンが全くなく、子供が自発的に勉強することに理解がない上に、過干渉、過保護で子供の前向きな意欲を阻害し、価値観を押し付ける親も実際に存在します。私の親がそうでした。親自身は子供に対して悪いことをしている意識はないにもかかわらず、私の精神は歪み、生きづらくなり、次第に親に対して負の感情を抱くようになりました。何年経っても親は間違った子供への接し方に気づく様子がなく、私の精神も崩壊寸前で何とか踏み止まっている状態でした。しかし過干渉・過保護であることは家庭外の人にはわからないので、外からはごく普通の家庭に見えていたことでしょう。私は当時、何とか状況を変えたいともがいていましたが、どうにもなりませんでした。私と同じような親を持ち、苦しんでいる方のために、当時どうすれば良かったのか、何か解決策はあったのか考え、少しでも私のような経験をしている方の助けになる方法を模索したいと思います。
私には幼稚園から中学校まで毎日一緒に通学し、家族ぐるみで付き合いのあったMちゃんという友人がいました。中学校では部活動も一緒でした。高校から別々な学校に進み、卒業後は互いに就職し、Mちゃんは同僚と結婚し、義両親と一緒に住み、仕事と家事と子育てをこなしていました。私はと言えば人間関係などで躓いて勤務先を何社か変わり、結婚や出産などの人生のイベントを経験せずに歳をとりました。どうしてこんなに違う人生になってしまったのか、私とMちゃんの家庭の違いから、その原因を探ってみたいと思います。
【私の両親・家庭】
- 両親はとても真面目な人です。どちらも昭和のはじめの生まれで、父は農家の8人きょうだいの末っ子、中学卒業後は住み込みで自動車修理の会社に就職し、板金の技術を学びました。母は父を早くに亡くし、経済的な事情から中学卒業後は絹糸を作る製糸工場に就職して会社の寮に入り、働きながら洋裁を学びました。結婚後、母は仕事をやめて家事や子育てに専念し、私達きょうだいが小学校に上がる頃、洋裁店で働き始めました。母の洋裁の技術は制服を縫えるほど高く、私達きょうだいの中学校・高校の制服は母が縫いました。私が子供の頃着ていた服も母の手作りのものが多数ありました。正月や誕生日、クリスマスには手の込んだ美味しい料理を作ってくれました。ひな祭りには雛段飾りの代わりに、手作りの雛人形を作ってくれました。一生懸命働く父と家庭的な母、お盆やお彼岸は双方の実家に行ってお墓参りをする、この時代(昭和40年代)のごく一般的な家庭でした。
- 子供の躾についてはちょっと変わったところがありました。私達きょうだいは小学生になっても歯磨きを教えて貰えず、歯を黄色くして学校に行き、同級生に軽くいじられていました。幼児向けテレビ番組でも歯磨きを教えているし、検診でも指摘されるはずですが、両親共にそういうことを子供に躾けることを考えていなかったようです。虫歯になって歯科で指摘されて初めて歯磨きするようになりました。両親の出身地は県の中心部から離れたところです。今でもコンビニや店舗が殆どない地域なので、そういうことが影響していたのかも知れませんが、両親ともに気がつかないとは不思議です。両親はどうしていたのかも疑問です。
- 当時10円程度から数百円で買えるような、ちょっとしたグッズやおもちゃなど学校で流行っている物をほぼ買って貰えませんでした。そのため学校で皆が遊んでいても、ただ見ているしかありませんでした。時々勇気を振り絞って「貸して…」と言ってみるのですが、いくら子供同士でも、いつも借りる側というのは気が引けるものです。母に言っても「そんな物すぐ飽きて使わなくなる」というだけで、絶対に応じてもらえませんでした。お小遣いも渡してもらえず、欲しい物があったら母に申告して許可されたものだけ実費をもらうシステムのため、自分で勝手に買うこともできませんでした。皆が楽しそうに遊んでいるアイテムを持っていないわけですから、一緒に遊ぶこともできないし、どうやったら上達するかとか、どんなバージョンがあるかとか、一切その遊びについて話もできません。いつも身の置き所がない気持ちで、ただ見ているしかありませんでした。だんだん皆が持っているものは私は持てないんだ…という惨めで卑屈な考えと、見えない境界の外側にいる気持ち、母に対しての恨みの感情が私の中に浸透していきました。わが家が数十円、数百円の物が買えないほど貧乏だったわけではないと思いますが、子供の頃に父親を亡くし、お金がない生活をしてきた母には、衣食住以外のお金は無駄という考えがあったのだと思います。学校で流行る物は確かに一過性の物かも知れませんが、遊びを通して友人とコミュケーションが出来たり、会話などの能力が向上する可能性もあり、単なる流行り物ではない側面もあると思います。母はそういことを全く想像できなかったのでしょう。気のきく子供なら親に対して欲しいものを上手い具合に要望することが出来るのでしょうが、当時の私はどうしても欲しいと親に訴える力もありませんでした。流行りのグッズを買ってもらえないことで惨めな思いをしていることを訴えても「私が子供の頃はもっと貧乏だった。貧乏な事を不幸だとは思わなかった」「小学校から親の仕事を手伝って家計を助けていた」と取り合ってもらえませんでした。しかし全く何も買ってもらえなかったわけではなくて、誕生日にはケーキやごちそうを用意してくれて、プレゼントを買ってもらいました。通学用に古布でアップリケを施したかわいい手提げを作ってくれたりもしました。でも遊びのグッズとなると何故かNGなのです。私が二十歳になる頃、振り袖を買ってあげると母から言われましたが、私は頑強に拒みました。最後には母親を泣かせましたが、あまり罪の意識は感じませんでしたね。振り袖は高額な上に成人式で一日着れば、その後は殆ど着る機会はありません。私にとっては振り袖よりも、友人と一緒に遊べるツールの方が何十倍も大切でした。そのお金があったら、アレもこれも買えたのに…と母に何度も訴えましたが、母親には通じなかったようです。母にとっては振り袖を着てもらう事が子育てをする上で目標で、楽しみだったのでしょう。でもそれは母の思い込みです。世の中の慣習を人並みに大事にしたい、世間並みの用意を子供にしてあげたいという気持ちもわかりますが、私は全く嬉しくありませんでした。そんな一日で終わることのためにお金を節約して、年齢相応に友人とコミュケーションを取るツールを買うことも許さず、日々子供に惨めな思いをさせて何が振り袖だ!と私はここぞとばかりに母に抵抗しました。母が子供の訴えを無視せず、できる範囲で友人と遊べるものを用意してくれたなら、母を恨む事もなく、喜んで振り袖を着ていたでしょう。成人式には洋服を来て参列しましたが、誘ったり誘われたりする友人もなく一人で参加し、あまりいい思い出はありません。
- 母が一家団欒を大切にする人で、夕食後に皆でテレビを見たりすることが好きでした。私が小学生ぐらいの時は親とゲームなどして過ごしました。(※今のようなゲームではありません。ボードの上の駒を動かすようなゲームやトランプなどです) 休日には近所の空き地で親とバドミントンをしたりもしました。友人と遊ぶグッズは買ってくれないけれど、親の管理下で遊ぶことはOKなのです。私が20代半ばの頃に、一階が居間、2階に子供部屋、子供部屋の下に両親の寝室がある家を新築しました。夕食後すぐに自分の部屋に行こうとすると母は「何で食べるとすぐに2階に行くの?」と言って子供が居間に残ることを強く望みました。そのため自分の部屋でやりたい事があっても、居間にいて親が見ているテレビ番組を見るか、居間にあった新聞か父親が読んでいた政治・経済関連の本を見て過ごすしかありませんでした。その本に興味があるわけではなく、居間にいて興味のないテレビ番組を見る代わりに、時間をつぶす手段として読んでいただけなのですが、政治経済の裏話や、国会議員にまつわる話、ニュースの裏話が載っている本を若者が見てどうするのでしょう。本当は自室に行ってやるべきことも、やりたいこともあるのに、私達が帰宅して団らんするのを楽しみにしている母を気遣い、ダラダラと居間に居続けました。食後20時頃に散歩に出ても母に咎められました。住宅街で特に危険な地域でもないのですが、暗いからなのか、母と一緒にいてほしいからなのか、寒いからなのか、理由はわかりませんでした。母は色々なことに駄目出しをするのですが、理由の説明がないのです。団らん後に入浴して自室に入ると22時を過ぎている事が多く、就寝するまでの時間に勉強などをしようとすると、椅子を動かす音を聞きつけた母が怒鳴り込んで来てやめさせられました。本当なのかと思われるかもしれませんが、本当のことなのです。この頃親は50代〜60代だったので早めに就寝したいということだったのかも知れませんが、部屋はそれぞれ独立していて、椅子を動かす音が睡眠の妨げになるとも思えず、怒鳴られるハッキリとした理由はわかりませんでした。母の怒鳴る勢いが凄いので、私は床に足を着くことも遠慮して早々にベッドに入らざるを得ませんでした。母自身が中学卒業後に寮生活をしていたため、家族の団らんを大事にしたい…という気持ちは今になると想像できます。でも子供には子供なりのやるべきことがあるし、学校や職場では拘束されているので、ちょっとした息抜きも必要なのですが、母親には理解出来ないようでした。特別優秀でもなく特技もなく、肩身の狭い思いで生きている私としては、少しでも周囲との溝を埋めたいと、就職してからも英語やペン字などをちょっとした時間を見つけて勉強していたのですが、いつも母親に見つかって途中でやめさせられました。何も迷惑をかけることはしていないのに何で妨害するの?親は子供が一人でも生きていけるように応援すべきなのではないの?母親が経験した職種では必要ないけれど、他の仕事には必要なこともある…などと、色々と説明や反発をしてみても無駄な抵抗でした。受験以外は勉強する必要がないと思っていたのでしょう。時間になったら就寝させる…という発想は、寮生活の名残りなのか、両親が寝ている時に子供が起きていることが気に入らないのか、何度も尋ねてみましたが、回答らしいものは得られず、「お前みたいな小娘に文句を言われる筋合いはない」と恫喝されるだけでした。とても矛盾しているのですが、就寝時間を決められていたわけではないのです。また母は職場の同僚の娘さんがとても優秀で、学生時代は夜遅くまで勉強していたと聞くと、「〇〇ちゃんは夜中まで勉強していたんですって」と他人のお嬢さんの事を嬉しそうに私に話すこともありました。日頃の私に対しての態度とは、相反することなのですが、気づいているのかいないのか、全くわかりませんでした。
- 両親は子供の教育に具体的なビジョンを持っていたとは考えられません。生きていくうえで最低限のルールだけは破ってくれるな…という程度でした。両親共に中卒ですが、それぞれ技術を身に付けていたので生活には困りませんでした。しかし父は、高卒でないために〇〇の試験も受けられなかったし、〇〇にもなれなかったと自分の学歴を嘆いていました。私が幼稚園に入園する前に、名前を漢字で書けるよう特訓してくれたのは父です。画数が多く難しい名前を幼稚園入園時には書けたので、先生から褒められた記憶があります。修学旅行に行くときに、小遣いが少ないと惨めだから、とお金の心配をしてくれたのも父でした。父は自分の経験から子供には同じ思いをさせたくないという気持ちがあったようです。母は父と違って自分が教育を受けられなかったから、子供にはちゃんとした教育を…とは考えていなかったようです。生活するのに精一杯だったということもあるでしょうが、そもそもちゃんとした教育というのが、どういう事なのか、わかっていなかったのだと思います。母は教育よりも、どうしたら経済的によくなれるかを常に考えている人でした。実際に母は自宅の敷地の一部を人に貸すことで、我が家に新たな収入をもたらしてくれました。私が小学生の時には、幼なじみのМちゃんの親御さんから誘われて、私と妹にそろばん、オルガン、習字を習わせてくれたのですが、そういった収入があったからこそ出来たことだと思います。この習い事は子供に何かを身に付けさせたいというより「お付き合い」程度の発想だったのだと思います。元々何か目標があるわけではないので、オルガンは1〜2年、そろばんと習字は数年で辞めました。親からもうそろそろ…と退会を促されたと記憶しています。恐らく月謝が負担だったのでしょう。今振り返ると当時三十代だった両親が、姉妹2人分の月謝をよく払ってくれたなと思います。家族ぐるみで付き合いのあった方から誘われて、断ることが出来なかったのかも知れませんが、この誘いはとても良い誘いでした。学校と家庭以外の第三の場所で、先生や色々な年齢の仲間と出会って刺激を受けたことは私達姉妹にとても良い影響を与えました。待ち時間などに教室の仲間と一緒に遊んだ事を今でも覚えていますし、そろばんは暗算にとても役立ちました。妹は書道で才能を発揮して、私が辞めた後も続け、師範の免許を取りました。低年齢で習ったオルガンは、私の指が勝手に覚え、大人になっても何曲か弾くことができました。何でも吸収する時期にとても良い経験をさせてもらったと思います。学校の勉強に関しては、勉強する環境を作ることにも非協力的な両親でしたが、一度だけ母自ら私が通う教室を探してきた事がありました。私が中学3年のある日、帰宅すると母から突然、英語の塾に行くように言われたのです。高校受験まであと数ヶ月という時期です。同じ中学校の生徒の母親が自宅で教えている塾で、一度に教わるのは1人か2人。とても小規模でした。恐らくPTA仲間から聞いて来たのでしょう。私はこの頃親から、一歳違いの妹とダブルで私立の学費は払えないから、どうしても公立高校に合格して欲しいと言われていました。私の英語の習熟度がわかっていない母ですが、受験に向けて何かやらなければと思ったのでしょう。事前に私への相談は全くありませんでしたが、私は母の指示通り、塾に通うことになりました。この塾はレベルが高く私の実力には見合っていないのですが、先生は私の実力に合わせて資料を作ってくれました。数ヶ月後、毎回の学習の内容を十分に理解したとは言えないまま受験しましたが、何とか合格することができました。この塾は企業の社宅アパート内にあり、勉強が終わったあとは先生手作りのスープや、お菓子とお茶をご馳走になりながら雑談をしました。自分の親とは全くタイプが違う先生や、一緒に学んでいる同級生との時間は、緊張と共に良い刺激になりました。母は私を何とかお金がかからない公立高校に合格させたい…という焦りからこの塾にお金を出してくれたのだと思います。この事には感謝しなければなりません。しかし母が勉強に協力してくれたのは高校受験の時まででした。自宅は高校入学後にリフォームし、部屋の間取りの関係などから夜遅くまで勉強することが出来なくなりました。リフォームの理由は部屋数を増やしたり、水回りを改善することの他、将来の家族の葬式のために二間続きの部屋を用意するため…でした。この時代は自宅で葬儀をすることが殆どだったので、母はどうしても二間続きの部屋を作らなければならないと思っていたようです。しかしこの家で葬式を出すことは結果的にありませんでした。葬式をする予定の部屋は、私と妹の勉強部屋を兼ねた寝室と両親の寝室が大きなすりガラスが入った襖で仕切られていました。勉強していると両親の部屋に灯りが漏れるので、親が就寝したら私達も寝なければならず、勉強したいと思っても途中でやめなければなりませんでした。入学した高校は毎日沢山の時間を勉強に費やさないと学業についていけない学校でしたが、その間取りのせいで夜遅くまで勉強することが出来なくなりました。当時入部するのが当たり前だった運動部の活動に加え、通学に自転車で片道40分ほどかかることもあり、私は複数科目をどのように学習すればいいのか分からなくなり勉強に躓きました。実際に時間的余裕もありませんでした。高校入学時は沢山勉強して好きな教科を強くしたいと希望に燃えていた私ですが、家庭環境や部活動が原因で、次第に授業の内容についていけなくなり、どこから手をつけていいのかわからず、心の中はパニック状態でした。部活動は誰かが退部を申し出ると、全員でミーティングが開かれて強い引き留めをされます。私も退部を申し出たのですが、マネージャーになって欲しいと先輩から言われて引き受けてしまい、結果三年生まで在籍しました。この時代、部活動に所属しない生徒はあまり良いイメージを持たれませんでしたが、今振り返るとそんなことは気にせずキッパリと退部して勉強や習い事をすべきだったと思います。親は学業の成績を尋ねる事が皆無でした。中卒の親にとって、高校は未知の贅沢な習い事のように受け止めていたのではないかと思います。高校進学と同時に、家を勉強しづらい間取りにしたことを考えても、これから本格的な勉強が始まるとは考えておらず、「よっしゃー、公立高校に受かったからお金に余裕出る!リフォームしよう!」ぐらいにしか考えていなかったんじゃないかと思うのです。私が高校で何を勉強しているのかも、恐らく把握していなかったと思います。学業成績を尋ねるような親ならば、成績向上のためにはどうすればいいかを親の方から提案するのでしょうが…。私は色々な問題を解決しないまま、周囲の雰囲気に押し流されてずるずると高校生活を続けてしまい、もう一度1年生からやり直したい…というふつふつとした不満と後悔を抱えながら、高校を卒業しました。卒業後は一般企業に事務職で就職しましたが、私の心に「勉強したい」という気持ちがいつも湧いてきて、伝票の計算をしながらも、こんなことしていないで勉強したいと常に思っていました。勉強できなかったコンプレックスや後悔が私の心から消えることはなく、帰宅後に自室で勉強していましたが、私の部屋の灯りが隣の両親の寝室に漏れるので、また母親に怒鳴られて泣く泣く中止せざるをえませんでした。照明が漏れないように、色々な工夫を提案するのですが、親は子供を取り締まるものと思っているらしく、子供の意見にはことごとく反対されました。早朝や玄関での勉強も試みましたが、やはり母に見つかり中止させられました。母親から「何の勉強しているの?」と尋ねられたことは一度もありません。「頑張っているわね」と言われたこともありません。私は「何で駄目なの?部屋でドラムを打ち鳴らしているわけではないし、家の手伝いだってちゃんとしているし、本を買う費用も請求していないでしょう?」と抵抗してみるのですが、母の答えは「(実家から)独立も出来ないくせにつべこべ言うな」「気に入らないならこの家から出て行け。この家はお父さんと私が建てた家だ!」というようなことでした。勉強しているだけなのに、ずいぶん大げさですね…。私は母親に反発したいわけではなく、勉強できなかった、勉強していないコンプレックスを何とか解消したい、出来れば自分に自信を持ちたいと思っているだけなのですが、そういう気持ちを伝える前に怒鳴られて会話を終了されてしまうので、なぜ勉強しているのかを母親に伝えることはできませんでした。そもそも子供が勉強していることを否定的に捉えて怒鳴る親は、とても稀な存在だと思います。勉強させすぎの虐待はあっても、勉強をさせない虐待って聞いたことがありません。母はとても家庭的な人で料理は美味しく、家の中もきちんと整え、洋裁や編み物も得意で、私や妹が着る服もずいぶん作ってもらいました。でも私は愛情というものを感じた事がないのです。子供との強い接触を望むけれど、基本的には子供を否定し、過干渉で子供のやる事を奪い、前向きな努力も阻止し、子供が将来困らないか心配もしないのです。働き者の母が整えた環境の中で、私は意思を持たない人形のような気持ちで暮らしていました。母に感謝できない自分に苛立つと共に、何で私はこんな親のところに生まれてきたのか?という究極の疑問が湧いてくることもしばしばでした。職場では優秀な先輩、後輩に囲まれて肩身が狭く、自宅では母から理由なく私のやることなすことを妨害されて、次第に会社でも自宅でも身の置き所がない気持ちになってきました。20代前半で一度家を出てアパートを借りた事があります。家賃が安く酷いアパートでした。そこに両親が来たことがあるのですが、父が部屋を見回して「こんなところでも、うちよりいいのか…」と言ったことがあります。私は心の中で、あんた達が勉強もさせてくれず、干渉が強いからだよ!と思っていましたが、わからないみたいでしたね。家が立派だとか、古いとか、狭いとかあまり関係ないのです。家族がそれぞれの意見や希望を出し合い、お互いに協力する心があれば、ちょっとした工夫で実家に居続ける事ができたはずなのです。何十年に一度の葬式のために日々の暮らしを犠牲にするバカバカしさに気づけたら、勉強するちょっとしたスペースを作ってくれさえしたら、子供が成長することを喜んでくれる親だったら、実家に居続けることも出来たし、親子で言い合いしなくても済んだのに…と思っていましたが、何万語を尽くしても伝わらない事がわかっていたので、もう私も何も言う気にはなれませんでした。このアパートでの暮らしは、あまりにも安い家賃の部屋を選んだため、ろくに料理も出来ず体調を崩し、同じアパートに正体不明の人が住んでいたりして不気味で、短期で実家に戻ることになりました。そして戻ると同時に母とのバトルが繰り返されました。私は仕事をするうえでも能力不足を感じていました。普通高校しか出ていないのに経理の仕事をしていたのです。役にたったのはそろばんでした。そろばんに誘ってくれたMちゃんの親に感謝です。事務職であっても色々な能力が必要で、私はそのことにも常に劣等感を感じていました。仕事が満足に出来ないことで人間関係もあまりうまくいっていませんでした。本当は働きながら仕事に役立つこと、好きなことを自宅で勉強したかったのですが、それが出来ず、就職してから3年後、私は仕事を辞めて、母親が仕事で不在の日中に家で勉強することにしました。貯めたお金で簿記の学校に通ったり、英会話教室に通ったりしました。アルバイトもしていました。毎日の夕食作りは私の役目でした。私には退社する理由がきちんとありましたが、親戚からみると仕事が長続きせず、好き勝手していると思われていたようです。家庭的で働き者なのに、教育に興味のない親と暮らしている私の悩みなど、誰もわかってくれませんでした。親が事務系の仕事ではないため、入社するまでどんな仕事をするかもわからず、仕事をするうえで準備不足だった事も否めません。3年後、私は地元のエネルギー関係の会社に就職しました。
- 料理、食器洗い、掃除、洗濯、おつかいなど家事全般は子供の頃からさせられました。農家を営む父の実家や父のきょうだいの家からいただく野菜の下処理などもよく親と一緒にしていました。私自身は特に家事は嫌ではなく、当たり前のこととして行っていました。私のお弁当は母が作っていました。母が作るお弁当はカラフルで栄養バランスが良く、友人や同僚から、よく褒められました。社会人となり、もうそろそろ自分で作らねば…と私がお弁当を作っていると「私を呆けさせるつもりか!」と母から真剣に怒鳴られました。またしても不思議でオーバーな反応ですね。やっとお弁当作りから卒業できる!と喜んでくれればいいのに…。母は家事は子供にもさせて自分の負担を減らしたいという気持ちがありながら、これとこれは譲らないというような考えがあったのかもしれません。自分のテリトリーということでしょうか?ことごとく子供の成長を喜ばず、子供が能力を身につけることを頑強に阻む母でした。
- 母は他人に対してはいつも笑顔で親しみを持って接する人でした。母に会った方は皆さん強い印象を持たれるようで、母と一緒に買物などに出かけると「あら〇〇さんこんにちわ」と複数の人に声をかけられました。町内の婦人防火クラブの会長を引き受けたり、ふとしたきっかけから、ご近所のお金持ちの家の方と友人になり留守番を頼まれたりもしていました。私が小中学校の頃はPTAの役員もやっていました。お金を稼ぐ能力があり、自宅の敷地の一部を人に貸したり、子供の手が離れてからは営業の仕事で高収入を得ていました。父がまじめに働く人であることに加えて母の収入ややりくりのお陰で我が家は自宅を2度新築し、他にも不動産を購入しています。こういったことから母は自尊心がとても強く、人の意見に耳を傾けないところがありました。一度母が何かを言うと、自分の意見を引っ込めたり変更したりすることはなく、大きな声を出したり周囲の意見を遮断して、自分の意思を押し通すのです。こういう点は家族だけでなく周囲の人へも不快感を与えていたようで、数年に一度、法事などでしか会わない親戚から私に「ママの方が間違っていることだってあるんだよ!」と言われたり、母親の勤務先の上司から「お母さんは、ああそうですか、ということが絶対にない」と言われたこともありました。普段から、よほど母に対して不満があるから、たまにしか会わない娘の私にここぞとばかりに訴えるのでしょう。私は心の中で、やっぱり親戚や職場の方にも同じ事をしているんだな…と呆れると共に、私が母から受けて苦しんでいることは、私の勘違いではないことに改めて気づかされるのでした。周囲の人に嫌な思いをさせているのに、一方ではとても信頼されているので自分に自信があり、悪い部分があっても、母を矯正することは誰にもできませんでした。また私が勉強したり、何かの能力を身につけようとする事を、母親の能力に嫉妬して、母親を乗り越えようとしている…と考えていたようです。私が40歳になった頃母に「洋裁を教えて欲しい」とお願いしたら、とてもめんどくさそうに、イライラした様子で「あんたは私の能力に嫉妬して、私を乗り越えようとしてるんだ!」と怒鳴られたのです。この時は本当にあ然としました。私には何の特技もないので、せめて母親が生きているうちに技術を継承したいと思っただけなのですが…。この言葉を聞いて、とてもびっくりすると同時に、何をやっても妨害ばかりする理由がやっとわかったと思いました。教えるのが面倒くさいだけなら、こんな発言はしないでしょう。普段から母自身が自分はすごい人間なんだと思っているからこそ、出てきた言葉だと思います。でも自分が生んだ子供にこんな感情をもっている親なんていないですよね。子供が成長しようともがいている様子を、自分(母親)への嫉妬や対抗心と受け止めるとは…。こういう暴言を聞くたびに、私は本当にこの人から生まれた子供なのだろうか?何で私はこんなに変わった親の元に生まれて来たのだろうか?と自分の運命に疑問を持たざるを得ませんでした。こういう時の母は取り付く島がなく、勝手に怒鳴って話を終了させるので、洋裁を教えて欲しいのは、母の能力を少しでも継承したいからだよ…と説明することは出来ませんでした。洋裁を教えてもらいながら、洋服を一枚完成させる…という私の楽しい想像は母の一言で消滅しました。
- 母の口癖は「くだらない」です。私が社会人になってから、漫画を買って来て読んでいると「そんな物レジに出すのも恥ずかしい」と言われました。子供の頃は学校から帰宅したら漫画本を勝手に捨てられていたこともあります。友人の家に行くとシリーズで漫画本が置いてあったりしましたが、うちには縁がなかったですね。子供同士で漫画のストーリーについて話をしたり、登場人物から生きるヒントをもらうこともあるかと思いますが、そもそも読んでいないので、友人とそういう会話もできませんでした。私が大人になってから親戚の子に、「〇〇ちゃんの家に行くと遊ぶ物が全くなかった」と言われたことがあります。私が記憶しているのはリカちゃんハウスとピンを動かして遊ぶゲーム、オセロ、トランプ、バドミントンセットぐらい。子供向けの本は少しあったと思います。遊ぶ物が無いので、公園や家の近所で友達と遊ぶか、テレビを見るしかなかったですね。私が子供の頃は良いアニメが沢山あったので、取り敢えず時間はつぶせました。自宅で母がやっていた洋裁の仕事を見ていたり、しつけ糸を抜くなどちょっとした手伝いをしたりすることもありました。一方、両親共に政治・経済や世の中の動きに興味があり、ドキュメンタリーや政治経済・ビジネス関連のテレビ番組を良く見ていて、私達きょうだいも一緒に見せられました。そういう知識が無駄だとは思いませんが、勉強が出来るわけでもなく、子供らしい遊びもせず、可愛くもないのに、政治経済・ビジネスの情報に詳しい子供ってどうなんでしょう。母が常に「くだらない」を連発するため、私もその言葉にすっかり影響されて、物事を上から目線で判定するクセが身につき、ある時誰かがやっていることを批判したら、会社の先輩から「〇〇さんは何かやっているの?!」とご指摘を受けたことがありました。何もやってないのに人の批判するなよ!という意味だったのだと思います。学校では皆の話題についていけず、社会に出ても可愛くもなく、特技もなく、優秀でもなく、若者らしい遊びもせず、政治・経済の情報にうんちくを言い、上から目線で他人のやることを批判する私は、周囲から疎まれ、扱いにくいと思われていたのではないかと思うのです。逆に可愛くて、特技があり、優秀で、若者らしい遊びをして、いつも朗らかで、政治・経済にうんちくを言わず、他人のやる事を批判しない人であれば、私ももう少し人間関係が豊かで楽しい人生だったでしょう。親の口ぐせ、親が作る家庭環境は子供の人生に確実に影響していると感じます。
- 私は小学生ぐらいまでは、近所の子どもたちと公園や双方の家に行ったりして活発に遊んでいました。中学・高校は部活動の仲間が友人のような存在でした。社会人になると、同期や歳の近い先輩と時々食事に行って、あれこれ話しをしていました。少ないですが人付き合いはありました。たまに家に友人を連れて来ると母は「あんたの友だちってあんな人…」と小馬鹿にするのです。とても失礼なのですが、何を根拠にあんな人…と言うのかわかりません。母は人に対して外見重視の傾向があり、恐らく母の基準から外れているということなのでしょう。友人と部屋で話していると、母が頼んでいないのに怒ったような顔でお茶とお菓子を運んできたりすることもありました。何で怒っているのか理由は全くわかりません。恐らく私の友人に対して良い母を演じなければいけないことに怒っていたのではないかと思います。私はそんなに嫌な顔で来るなら来なきゃいいのに…と心の中では思っていました。母親ならば子供に友人がいるのを喜ばないのでしょうか?世の中に迷惑をかけているとか、物凄く奇抜な服装をしているとかなら「あの人何?」と言われても仕方がないですが、ごくごく普通の友人なのです。いったいどういう友人ならいいのでしょう。母は私にどういう人と付き合って欲しいとか、誰とも付き合ってほしくないとか一切言ったことがありません。私に「友だち出来た?」と尋ねたこともありませんし、私に友人が出来るか心配している様子も感じたことがありません。やっぱり私の母はかなり変わっていたんだと思います。せめてせっかく家に連れてきた友人を馬鹿にするのだけはやめて欲しかったですね。
- 母は子供が悩みを相談しても「あんたは情けない、私の子供じゃないみたいだ」などと言って子供を否定して叱りました。それが励ましと思っていたのでしょう。ぐずぐずしたことを言わずにシャッキリせえ!とゲキを飛ばしているつもりなのだと思います。でもいつもいつもそんな対応では励ましにならないのです。私は傷ついた心を更に傷つけられて落胆しました。悩みを最後まで聞いて一緒に解決作を探ってくれる訳でもなく、そんなことで悩むことは情けないと、悩み自体をなかった事にされてしまうのです。子供は何かの壁にぶつかったら、壁を打ち破ったり、乗り越えたりして成長していくものだと思いますが、壁にぶつかったこと自体を無かったことにしろと言っているのと同じです。相談しても解決にならないので、自分で何とかするしかないのですが、子供の知恵だけでは有効な解決策を見つけることは難しいのです。壁にぶつかっても乗り越える武器も能力もないので、また同じ壁にぶつかります。そして身近な人が相談にのってくれないと、モヤモヤしたまま時間が経過して前進になりません。子供に相談を持ちかけられたら、解決策が見つからないとしても、悩み自体を無かったことにすることだけは絶対にやめて欲しいと思います。「そんなことがあったの?大変だったね」「一緒に解決策を考えようか」「その悩みを解決するには、毎日練習が必要だよ」「〇〇の△△な欠点が呼び込んじゃったんだね。そういうところを直すといいよ」など、共感と寄り添う姿勢、具体的なアドバイスとどんな時でも親は味方だよという態度を子供は求めているのです。親も忙しいと思いますが、解決策が見つからなかったら取り敢えず、共感と励ましのことばだけでもかけてもらえると子供の気持ちはもっと明るくなり、親子の関係も良くなったと思うのです。ちなみに父は人の話を聞いておらず、普段から会話が成り立つことが困難なので、何かを相談するのは無理でした。たま~になかなかいいことを言っている事があるのですが、何で今頃…というようなズレたタイミングでボソボソと言ったりして、父にアドバイスを求めても、ほぼ回答らしいものは得られず、家族は父と必要最低限のやり取りをするのも苦労する有り様でした。
- お小遣いをもらうようになったのはかなり年齢が進んでから。それまではお小遣いを貰えず、買いたい物があれば母に言って、許可がおりたものだけお金をもらって買いに行きました。小学生の時に、お小遣いをもらっている人、もらっていない人、もらっている人は金額は〇〇円以上?、〇〇円以下?と担任に質問されて教室で挙手させられたことがありました。この時もらっていない生徒は私だけで、地味に恥ずかしかったですね。今はこんな質問自体がありえませんが。
- 両親は日常の枝葉末節なことに逐一口出しをして、大事なことや人生の節目に当たるようなことを相談すると突然押し黙りました。父は自分が何かを決定したことにより、失敗したら嫌だ…という気持ちだったようです。母は子供の意思に任せたい…という気持ちだったと思われますが、本当の理由はよくわかりません。でも子供にとって進学も就職も結婚も人生初めてのこと。誰かの助言が欲しいのです。本人のキャラクターを良くわかっている親が適切なのですが、こういう時に気味が悪いほど何も言わない両親でした。お前にはこういう環境がいいんじゃないか、そういう家に嫁いでもやっていけないんじゃないか、お前はこういう勉強をするのがいいんじゃないか、取り敢えずやってみろ、困ったことがあったら相談にのるなど…何かを言って欲しいのですが全く何も言わなかったですね。まあ今になって思えば、子供に対して何もビジョンがないので、最初からこうして欲しい、こういうふうになって欲しいなどと思っていなかったんだと思います。私達きょうだいはこの点について共通する不満を親に持っていました。今思えば、何を相談しても「暖簾に腕押し、糠に釘」の親に相談することはさっさと諦めて、相談相手を他に探すべきだったのだと思います。でも子供の頃はそんな事考えませんよね。家族以外の信頼できる第三者の存在があれば、色々なことを相談できたのでしょうが、親絡みの付き合いが殆どで、誰に相談出来たのか、今思い返してもわかりません。友人や先生、同僚ぐらいでしょうか。今なら無料で相談出来るサイトがありますが、私が若い頃はそういうものがありませんでした。だから時々占いに相談して、だいぶお金を使いました。しかし占いはどういう方がやっているのかわからないし当たっているかも不明です。それにお金も高額です。物事の判断をする場合は、もっと具体的に、理論的に、専門的に、現実的に、その人のキャラクターに見合った判断をすることが適切なのだと思います。だから普段の私を知らない人に相談しても、適切な選択肢を選ぶことは出来ないと考えるほうが無難でしょう。相談相手として親が期待できないなら、その問題を相談するのは誰が適切なのか冷静に検討して、きちんと礼節を持って相談すれば良かったのだと思います。何度ボールを投げても受け止めもせず、投げ返してもくれない両親にボールを投げるのは早々に諦めて、私の投げるボールを受け止めて適切に投げ返してくれる人を探すことにエネルギーを振り向けるべきだったと後悔しています。今振り返って思うのは、日頃から家族以外の人間関係を作ることに意識的に取り組むべきでした。人間関係が狭すぎました。ボランティアや習い事、趣味など、自分がやりたいことをやって、仲間を作ったり、指導してくれる人、相談出来る人を意識的に複数作っておくべきでした。そこで私の個性も醸成されたでしょうし、悩みがあれば仲間や指導者に相談して、損得勘定のない率直な意見を聞けたでしょう。家族という狭い人間関係の中でもがき、親に対して不満を溜めるより、もっと色々な意味で人間関係の幅を広げておくべきだったと後悔しています。
- 両親の趣味・人付き合いについて。父は読書、山芋掘り、山菜採り、野菜作り、若い頃には会社の人たちと野球をしていたこともあります。体を動かすことが好きで1人で山に入ることも厭いません。わが家では父のお陰で山の幸をたびたび味わうことができました。お金がなくても楽しみを見つける名人です。また歳をとっても本を読むことが好きで、常に世の中の動きの情報収集もしていました。母は読書、編物、洋裁、映画鑑賞などが趣味でした。ほんのわずかな期間、習い事をしていたことがありますが、病気で入院したことをきっかけに辞めてしまいました。その後は特別習い事はせず、社会学級に参加したりして、その仲間とは交流がありました。母は生まれつき心臓に病気があり、激しい運動が出来ませんでした。そのため読書や映画鑑賞、洋裁、漬物や果実酒作り、友人を家に読んでおしゃべりするなどが主な活動でした。父は人付き合いをする時、ご馳走したり、自分の能力を無償で提供したりする人です。母は人に対して奉仕する面もありながら、ちょっとした人付き合いもお金を得る手段として利用するところがありました。相手からすれば母は安心して付き合える人ではありませんよね。生活が豊かになってもそういう行動を母がやめることはありませんでした。母は目立つ存在である反面、一部の人たちからはあまり好かれていなかったでしょう。人の心を想像することが苦手なので、知人を収入を得る手段に利用したら、相手がどう思うか気づいていなかった可能性も高いです。家族に対して干渉が強かったのも、子供の心をズタズタにしても平気でいるのも、人の心情がわからないから…というのが大きな原因だった気がします。他人をお金を得る手段に利用せず、純粋に母が楽しいと感じる趣味を継続し、同じ趣味の仲間が出来たりするような母ならば、もう少し家族に対する接し方も変わっていたでしょうし、母自身の人生も豊かだったと思うのです。
- 母は頼んでもいないのに、勝手に物事を行うことが度々ありました。例えば「私の部屋に絨毯を敷こうかな」と私が口走ると、私が仕事で不在の間に母が勝手に買って来て部屋に敷いてあったり、1人暮らしを始める前に「ベランダに花を植えようかな」と言うと、いつの間にか庭に花を植えた植木鉢が置いてあり、平然と私に「どうかしら?」と尋ねるのです。習い事で「着物を着なければいけないかもしれない」と口走ると、突然私の携帯に電話があり、今どこそこの着物屋さんにいるから来てと言われたりしました。絨毯にしても植木鉢にしても着物にしても頼んでいないのです。絨毯はどんな色にしようか、どんな柄にしようか、どんな花を植えようかと思いを巡らしているところに、思っていたような物とは全く別な物が既にあり、値札も外されている…。着物はまだ本当に必要か確認をしていない時でした。入手する行為そのものも楽しもうとしていたのに、その楽しみも奪われてしまい、与えられた物を気に入っても気に入らなくても受け入れなくてはならない…私の心の中には瞬間的にグワッと強い怒りが巻き起こるのですが、喜んでもらえるに違いないと思っている母を目の前にして怒るわけにもいかず、自分の気持ちを押し殺し、その商品を受け入れざるを得ませんでした。母は私とは違う人間であるにも関わらず、一心同体のような気持ちでいるのでしょう。日頃から母の締付けや干渉に苦しめられている私にとって、このような母の行為は、私の精神状態を更に悪化させました。母にはもっとボーッとしていて欲しいと何度も頼みましたが、その返事は「ボーッとなんかしていられない」でした。私としては時間や体力、お金にゆとりがあるなら、母自身の楽しみや活動を行って欲しかったのです。家族の世話をすることが生きがいで、子供が望む事を先んじて行うことは何ら悪いことではないと、母は思い込んでいたのでしょう。しかし子供側からすれば、やる事を奪われている感覚しかないのです。どんな言い方をしても母には伝わらず、また母の行動が子供の精神状態を悪化させていることにも全く気づいていないようでした。どこにもぶつけようのない怒りや悲しみ、不満、イライラ、虚無感などの負の感情が、私の心に山のように折り重なり、何年経っても押し殺した感情が、ふとした時に噴出しました。それは時と場所を選びません。仕事中や、私と同じ様な経験をした方の事をテレビや本で見た時などに、不意に押し寄せて来るのです。母の死後もこの感情は治まることなく、時にはそばで仕事をしている同僚に気づかれて、「どうしたの?」と言われてしまったり、歯を食いしばって自分の中に押し寄せる感情と戦うこともありました。母は友人もいましたし、町内の活動もしていました。料理も上手く、市販品よりも美味しいキムチをつけたり、洋裁をするなどの趣味もありました。しかしその有り余るエネルギーで、本来私がすべきことも、見境なく、断りもなくやってしまうところがありました。自分が生んだ子供であっても、踏み込んではいけない境界線があると思うのですが、全く気づいていないようでした。私の精神は崩壊寸前でした。正直なことを言えば、私が母に危害を加えるか、私自身が発狂するか、自らこの世からいなくなるか、いずれかのことが起こりうるのではないかと、自分自身に恐怖を感じながら過ごしていました。しかし母は60代半ばで病気によりこの世を去り、少なくとも私が母に危害を加える心配はなくなりました。
【Mちゃんの両親・家庭】
- 自転車屋さんをやっていて、店舗兼自宅のお住まいでした。だからご両親共にいつも家にいました。私が遊びに行くと、取り引き先の方や近所の方などが、茶の間にいることも度々あり、一緒にお茶を飲んだりおやつを食べたり、お話をしたりすることもありました。私の親に用事がある時は、私を預かってくれました。お母さんは長年にわたり行っている趣味があり、お店の仕事をしながら、定期的に趣味の活動をしていました。そしてそのお仲間もいました。
- トイレに入るとドアの裏側に「次の方のためにスリッパをそろえましょう」と書いた貼り紙がありました。
- 大きい家ではありませんでしたが、子供達が学校へ行くようになると、二階に独立した小さな子供部屋が作られました。
- 私のきょうだいは名前がある動物に似ていることから、Mちゃんと、そのきょうだいから時々、その動物の名前で呼ばれていました。そこである時、Мちゃんのきょうだいのことを、顔が似ている動物の名前で呼んだところ、帰宅後に泣いてしまったようです。後日Mちゃんのお母さんから、うちの〇〇ちゃん✕✕✕と言われて泣いたんだよ、何でそんなこと言うの?!とお叱りを受けました。えーっうちも言われてるけど…と腑に落ちませんでしたが、取り敢えずそれ以降は動物に例えるのはやめました。子供が悲しんでいたら、全力で相手に向かっていく親御さん、子供からしたら頼りになる存在ですよね。
- Mちゃんは高校野球が始まると地元チームを全力で応援していました。他県の高校野球のアイドル的な選手のこともよく調べていて、高校野球そのものをとても楽しんでいました。当時流行っていたアイドルや芸能人が載っている雑誌がいつも家にあり、私も時々見せてもらいました。私の家には絶対にないものでしたので、とても新鮮でいつも楽しく読ませてもらっていました。親御さんもそういう雑誌を買うことも見ることも、特に咎めている様子はありませんでした。お店で扱っている商品には子供が外で遊べる道具があり、Mちゃんも使っていました。私も時々貸してもらって遊びました。
- Mちゃんの両親が教育熱心だったかというと…正直わかりません。商売していたので、子供の勉強に付き合っていたとも思えません。どちらかというと本人任せだったと思います。親御さんもMちゃんの学業成績に、そんなに執着していたとも思えません。Mちゃんは中学校卒業後は徒歩で通える私立高校に進みました。高校卒業後は就職し、数年後に同僚と結婚しました。
- Mちゃんは結婚したときから義両親と同居し子育てをしていました。料理の家事分担は、献立と料理、洗い物はMちゃん、配膳と洗い物をふきんで拭いて食器棚にしまうのはお姑さんと決まっていて、それをずっと続けていて、お姑さんが献立に意見を言うことはないそうです。優しく、いつも温かいМちゃんですが、婚家でも良いお姑さんの指示に従い、円満に暮らしているようです。義理のお父さんが亡くなった現在は、義理のお母さんを連れてあちこち出かけているようで、どこまでも円満なМちゃんです。Mちゃんのお母さんはお店の仕事をしながら家のこともやっていて、しょっちゅう取引先や近所の方が出入りしていたので、自分の時間は家の中ではなかったのではないかと思います。私が子供の頃は気が付きませんでしたが、今思うと毎日公私の区別がない生活で、結構大変だったのではないかと思います。そういう母親を見て育ったMちゃんは、嫁ぎ先でも義両親や家族との和を大切にし、常に相手に気を配ることを自然に行っている人です。
【精神的にいつもギリギリだった私】
私は学校時代、クラスの中で特別仲のいい友人も出来ず、いつも何となく教室にいました。そんな状況に陥っている原因は私のキャラクターによるものが大きかったのだとは思いますが、教育に関心のない親に育てられ、遊びのアイテムも持っておらず、スポーツも苦手、おまけに可愛くもない…となれば、その辺のところが原因だったのかなと思います。何故かわかりませんが、私の母親は私が色々な能力を身につける事を喜びませんでした。私にも勉強したいことも興味のあることもありましたが、全て否定されるか、勉強することを許して貰えず、次第に私の精神は歪んでいきました。母は私に「自分と同じように」行動して欲しかったのではないかと思います。よく目立ち、どちらかと言うと美人な母親、何でもそつなくこなす母親、特技があり収入を得ている母親、他人に対してはいつもニコニコしている母親、何故か周囲から頼られる母親、こういう人間に私にもなって欲しいと思っていたのかも知れません。しかし母親が持っている素質を一つも持っていない私にとっては酷なことです。外に出ればいじめられたり、取り柄がないと言われたり、人付き合いが苦手で友人も少ない私が、母親のように振る舞うことは不可能ですし、外でストレスが多いからこそ、自宅では1人になる時間がとても大切なのに、団らんを強要されて心を休ませる暇がなく、自分の時間を使って特技を身につけるなど、周囲との溝を埋める努力をすることもできませんでした。高校卒業後就職はしましたが、周囲からキャピキャピしてない、若さがない、生きてるんだか死んでるんだかわからない、または甘やかせれて育ったんでしょうなどと言われていました。絶対に逆らう事ができない母親に常に鬱屈した不満を抱えながら、それをぶつける機会も場所もありませんでした。こういう日常は、私の体調にも影響を及ぼし、体の冷えやだるさ、気分が落ち込んだかと思うと、母親の言葉に対してヒステリーを起こす…そんな状態が長く続きました。母に対する不満を言葉でぶつけても何も改善されず、やる事を否定されたり、私がするべき事を勝手に母が行ったりして、私は次第に手足をもがれたように無気力になっていきました。母親は自分の接し方が原因だとは微塵も考えずに、漢方薬を買ってきたり、鍼灸やカイロプラクティックの有名医院に私を連れて行きました。一時的に体調が良くなったとしても、根本的な原因が解決されないままなのですから、今振り返ると治るはずがありません。私はやる事を奪わないで欲しいということと、ただ勉強したいだけなのだということ、能力が低くて困っていることを何十回も伝えましたが、母親に私の気持ちは通じず、私の考え方がおかしいという態度を崩しませんでした。私は次第に生きていることがとても辛くなっていきました。この世に存在していることに何も意味がないようにも思いました。時にはこの世から居なくなりたいと、家族に愚痴をこぼすこともありましたが、家族の誰からも共感も同情もしてもらえず、「変なことして家族に迷惑かけるな!家名傷つけるな!」などと言われるだけでした。更に親が家庭的できちんとしていて、経済的にも問題がなかったため、ごくたまに親戚などに状況を訴えても信用して貰えませんでした。私の心情をわかってくれる人は誰もおらず、私は限界を超えた危ういメンタルで一日一日をただやり過ごしてしました。
【世間的に問題のない家庭・きちんとした生活を押し付ける家庭に潜む魔物】
私は40代前半で実家を出て1人暮らしを始め、40代後半から国家資格に挑戦し数年かけて合格しました。今その資格を活かして副業を始め、収入の助けになっています。そしてこの仕事をすることにより、新しい世界が開けて、仕事をしながら癒やしにもなっています。動機は国家資格を取得して自分に自信を持ちたかったから…です。平日は出勤前に4〜5時に起きて勉強し、休日も4〜5時から17時頃まで勉強しました。家事も最小限にして、時間を出来るだけ勉強のために確保し5年間受験し続け、試験のために習い事もしました。実家に住んでいた時は、早朝起きていると、皆が寝ているのに何で起きている!と叱られ、夜は団らんを強要されて2階の自分の部屋に入ると、椅子を動かした音に気づいた母が怒鳴りこんで来て勉強を止めさせられました。本当なのかとお思いでしょうが、本当のことなのです。団らんに付き合い、入浴後22時前後から勉強を始めていた時のことです。椅子を引く音にも反応するぐらいですので、私は床に足をつくこともできず、諦めて寝るしかありませんでした。せめて1時間だけでも勉強の時間が欲しかった…。新築した家に住み自分の部屋も与えられていましたが、まるで地獄に住んでいるようでした。前向きに勉強しているだけなのに怒られる異常な日々が続き、私が勉強することを応援してくれる人が家の中に一人もいませんでした。父は妨害もしないし応援もしませんでした。この頃出産して実家で子育てをしていたきょうだいは母親側に立ち、私に向かって「勝手なことばかり言ってこの家から出て行け」とまで言いました。私はただ勉強したいだけ、家族の睡眠を妨害するつもりもないし、何も悪いことはしていないでしょうと何度も訴えたのですが、誰もわかってくれないのです。母ときょうだいは消灯した寝室で夜中におしゃべりしていましたよ。あのまま実家に居たら、資格取得はできませんでした。そして実家に住み続けていたら、私は間違いなく母に危害を加えて事件の当事者になっていたと思います。かなり精神的に追い詰められていました。1人暮らしをすればよかったのですが、それだけの経済力がなく出来ませんでした。母はそんな私に向かって「独立も出来ないクセに!」と怒鳴って更に私の心を追い込みました。母の日頃の私への態度から「ほら、私がいないと生きていけないでしょう?だから家を出ることは出来ないでしょう?」と思っているように私は感じていました。私を成長させようとしないのに、いつまでも管理下において離れようとしない母親のせいで、私の心は崩壊寸前まで追い込まれているというのに…。私は両親を否定したいわけではありません。どちらも苦労して頑張って生きてきた人で、私はその恩恵を受けて生きているのだと感謝もしています。だからと言っていくつになっても親が子供を管理下において監視し、子供の行動を阻止して取り締まるというのは完全に間違っていると思います。子供が前向きに歩を進めているのに、歩き始めたところで親が次々と障害物を置き進路を塞いだら、子供の心はどうなるでしょうか?縁あって家族になっても、子供は親とは違う個性を持っています。やりたいことも親とは違います。家という大きな鳥かごに子供を閉じ込め、世話はするけれど、どこにいて何をしていても親が目を光らせ、いちいち駄目出しをして、子供の手足が縮こまる原因を作らないで欲しいのです。家のカラーとは違う個性の子供が生まれても全くおかしくありません。うちとは違うカラーだから、うちに合うカラーにしなければいけないと矯正したり、子供の要望にことごとく無意味に反対したり、子供の気持ちを無視し続けることから、色々なことが狂い始めるのではないでしょうか。子供の個性を尊重し、家族や世間に迷惑をかける行動でない限り見守るべきです。子供も沢山の選択肢の中から選んで物事を行っています。親ならば、動機を訪ねて「頑張ってね!頑張れよ!」と声がけするのが本当ではないでしょうか?そのうえで勉強する時間にクレームを言いたいのであれば、何時間勉強したいのかを子供に聞いて、いつ何時間やればいいか親子で相談するべきだと思います。何をやっているか確認もせずに一方的にやみくもに勉強をやめさせれば、長年のうちに強い恨みを子供からもたれることになるでしょう。子供は成長しなければなりません。親が成長を望んでいなくても、将来自力で生きていかなくてはならないのですから。心の健康を保ち能力を身に着けていくために、親は子供がイキイキとやりがいを持って取り組んでいる事柄は何か、反対に無気力になってしまうのはどんなときなのかを観察すべきだと思います。何をやるかは子供自身が決めるのです。野球をやっている時に目をらんらんと輝かせて取り組んでいる子供に対し、うちの家業は〇〇だから野球なんて必要ないと、無理やりやめさせて家業に関係することをさせる…などは子供の心に大きなストレスを与えると思います。やりたいことを我慢し、興味のない事に取り組むと二重のストレスが生じます。更に日常的に子供を親の監視の元に置き、力のなさを馬鹿にして侮辱したら、子供の心はどうなってしまうでしょうか。世間的にも評判が良く、経済的にも問題がない家庭なのに、子供が親や他人に危害を加えたりして問題を起こすニュースを時々見ます。原因は様々だと思いますが、私は単なる偶発的な出来事とは思いません。何か共通する要因があるのだと思います。家庭内で行われていることは他所からはわかりません。家庭環境も親子の個性も様々ですから、全ての家庭で一様に比べることはできませんが、子供の個性を尊重せずに子供を否定し、親と同じように行動させようとしたり、無意識のうちに理想とする人間に近づけようとしていることが共通する要因なのではないかと思います。人それぞれ個性も生きがいもやりたいことも運命も違うのに、周囲の意向でやる事を決められたり、親の固定観念から子供の行動を妨害したり、子供がやる事を奪ったりすることは、じわりじわりと人の心を壊すのです。親へ対する要望や子供の希望など子供から投げられたボールを受け止めずに避けてばかりで、否定と取り締まりという竹刀で子供を傷つけ続けていれば、必ず親は子供から恨まれます。これを年中繰り返していれば、家庭の中には見えない火種があちらこちらに発生し、ちょっとした刺激で大爆発を起こします。特別問題がない子供に対して家庭の中で否定と取り締まりを毎日繰り返しているなら、子供は親の言いなりになるか、親に隠れてやりたいことを実現するしかありません。どちらのケースも親に対して強い恨みを抱き続けるでしょう。そして万が一何かで成功しても、親のお陰とは全く思わないでしょう。親がいなければもっと早く実現出来たのに…と思われるのがせいぜいです。親ならば子供から、「応援してくれてありがとう。いつもサポートをありがとう」と言われたいのではないですか?家庭の中に見えない火種を作るのではなく、マラソンランナーが給水所で受取る飲み物や食べ物のように、子供の成長を助け、環境作りに協力し、何かあったら援助し、励ますプチプレゼントを用意しておく方が遥かに家庭円満につながりますし、親の助けによって成長した子供は自分に自信を持ち、親にも感謝するでしょう。子供が前向きに取り組もうとしていることをむやみに否定したり止めさせないで下さい。それはマラソンランナーに対してゴールの遥か手前に障害物を置いて妨害しているのと同じです。子供の心の健康に良くありませんし、本来の運命・人生を狂わせることにもなってしまいます。親の役目は子供が走るコースを間違ったら、それとなく軌道修正を手助けすることであり、走るのを止めさせることではありません。私は父親から「何が人生だ」と言われたことがあります。結婚も出産も縁がなかった私は人生を語るほど生きていないでしょう、もしくは人生を語るほど意味ある一生じゃないでしょうという意味なのだと思いますが、子供に対してであっても適切な言葉とは言えないと思います。私がなぜこのことをブログに書いたかと言うと、親からされた事が大きな心の傷となり、この世から消えたいと何度も思い、母親が亡くなってから20年近く、母親からされた事がフラッシュバックし、グワーッと私の中に湧き上がってくる感情を持て余し、時には涙を流し、忘れたくても忘れられず苦しんできたからです。母親は生前私がここまで苦しんでいることに全く気づいていませんでした。何度訴えても私の気持ちをわかって貰えませんでした。また母の世代の独特の価値観で子供を思い通りにコントロールしようとしていたことも感じます。母は血がつながっているから、自分が産んだ子供だから言いなりになって当然、親と子は一心同体…という気持ちだったのだと思います。しかし親子であっても違う人間です。一心同体ではありません。子供には子供の意思があり、感情があり、親の接し方によっては子供の心は壊れて、人生が取り返しのつかない事態になりかねないのです。親子が育った年代は20〜30年の時間差があり、環境、教育、論理、家庭環境、遊びなど様々なジェネレーションギャップもあります。親が育った地域と子供が生活している地域にも様々な違いがあるでしょう。そのギャップを考えずに親の世代と同じような事を子供に強いることもまた、親子間の軋轢の原因になり、子供から恨まれているのに気がつかない親を生むことになると思います。母は恐らく、自分が親や親戚からされたことを、そのまま私にしていたのでしょう。世代間や地域のギャップを考えずに。また私の心理状態を想像することも皆無でした。母が世間的にみて悪い人なら、他人に相談するなど出来たかと思いますが、家庭的で働き者の母親を批判しても、誰もわかってくれませんでした。かえって何不自由なく育てられているのに、親の批判をするどうしようもない子…という雰囲気になるのがせいぜいでした。また勉強を妨害されることについては、あまりにもあり得ない内容なので、私が嘘つき呼ばわりされました。親子間では問題を解決出来ないうえに、誰にもわかってもらえず、親に対する鬱屈した不満をぶつけれる場所も、理解してくれる人もなく八方塞がりの状態でした。この頃の私の写真を見ると、目が虚ろです。家族には目がぼやっとしていると笑われていました。実の子がそういう状態なのに、家族で笑い者にするって何なんでしょうね。心の病気になる寸前になりながらも誰も理解してくれず、我慢の日々を続けるしかありませんでした。私の中には母親に対しての憎悪と、誰にも苦しみをわかってもらえない悲しみが溢れていました。ある時母が夜中に階段を踏み外して転んだことがありました。体に異常はなかったのですが、私はその時起きて様子を見に行くことをしませんでした。日頃の恨みが溢れているので、いい気味…という気持ちだったのです。その時母は、(私が)起きて来なかった…とショックを受けていましたが、何故なのか理由を考えたりはしてないでしょうね。自分が生んだ子供とは言え、あまりにも人の感情や訴えを無視すれば、憎まれても仕方がないのです。正直私はいつ事件を起こす当事者になってもおかしくない状況でした。母は怒鳴って自分の思う通りに子供を動かしているつもりだったのでしょうが、私の中には怒りと悲しみと共に、母に対しての恨みの感情が渦を巻いて降り積もっていきました。前向きに努力しようとしている事を無理矢理止められた時の悲しみや、自分でやるはずたった事を勝手に母親にやられてしまった時の怒りを無理矢理押し込めて生活していましたが、いつか限界が来て私の理性を超えて何かの行動を起こしてしまうのではないか…と不安に感じながら、限界ギリギリで踏み止まっている状態でした。私は母が亡くなってから十数年経過しても、自分の内側から湧き上がってくる母に対しての怒りやイライラ、悲しみの感情に苦しんでいました。負の感情がマグマのように私の中に常にふつふつと湧いていて、しかもそれを外に出してはいけない、押さえつけなければいけないと思いながら日常生活を送っていましたが、ふいに予告なく感情が飛び出してしまうことがありました。それは勤務中や休日、道を歩いている時など時と場所を選びませんでした。時にはそばにいる同僚に気づかれてしまい、「どうしたの?」と言われてしまう事もありました。恐らく私の顔が不自然に歪んでいたのでしょう。無意識のうちに手が不必要に動いてしまったり、呼吸が荒くなることもありました。長い間ぐっと自分の感情を押し込めてきた反動なのでしょう。私の意志に反して偶発的に湧き上がってくる感情に向き合うのは、とても苦しいことでした。そしてどうすればこの感情が治まるのか、いつになったら穏やかな気持ちになるのかわかりませんでした。自分でも異常だと思いながら、毎日仕事や家事などをこなして何とか自分を保っていました。気持ちが物凄く沈んで、生きている意味を見いだせない時は、無理やり予定を入れて、その日までとにかく生きていなければいけないと、時間をやり過ごしていたことも数度あります。今振り返れば何らかの治療が必要だったのだと思いますが、診察を受けることもありませんでした。ここまで私が苦しむ原因を作った母は、生前私が何を言っても、「言うことを聞けないならこの家から出ていけ。お前みたな小娘に文句を言われる筋合いはない。」と言うばかりでした。
【恐らく両親は…】
今振り返ると、両親共に何らかの発達障害だったのだと思います。普通なら子供に教えなければいけない常識を教えない、父は一方的にしゃべってはいるけれど、会話のキャッチボールがほぼ成り立たない、こうしたいと思ったら周囲への影響を考えず実行する。母親は思い込みが激しく一度言い出すと誰の静止も説明も聞かない、人の気持ちを理解出来ない、共感しない、世間一般的な親のように子供に何かを身につけさせたいと思わない、部屋を暗くするなと常に言い、隣の家から見える場所であってもカーテンを開けさせる、集団で歩いていても他の人と歩調を合わせることがなく自分だけさっさと先を行く……など数々不思議な特徴がありました。両親は戦前の生まれです。戦前戦後の混乱の時代に子供時代を過ごし様々な苦しみや苦労があったでしょう。戦争で兄弟や家族も亡くし、私には到底理解できない体験もしていることでしょう。大変な経験が精神や性格に影響したことも想像できますが、元々何らかの発達障害だった可能性も否めません。この時代には発達障害という言葉がまだなく、診断する方法も診断する施設も、診断する機会もなく大人になってしまったのだと思います。私に対する理不尽な態度が何らかの発達障害の特徴なのだと認識していれば、もう少し違った対応が出来たかも知れません。こちらの思いを伝えればわかるだろうと、何十年にもわたり何度も母親に直接交渉してがっかりし、怒り、涙を流すことを繰り返してきましたが、今振り返ると全て無駄な行動でした。もっと早期に両親の態度は変わらないのだと諦め、こちら側の態度を変え、変わらない親に対しての対策を立てるべきだったとだったと今は思います。
【当時私に何ができたか】
私は今生きていて働いて生活していますが、一歩間違えれば、既にこの世からいなくなっていたかも知れないし、精神が崩壊していたかもしれないし、事件を起こしていたかも知れません。そういう結果にならないよう、常に心にブレーキをかけていました。過去を振り返ると、私の心が限界に近づいていることに気がつかない親を変えようとしたことはエネルギーの浪費でした。親は変わらないと諦め、その点を踏まえて私がしたたかに行動を変えるべきだったと思います。まず中学・高校は部活動をするべきではなかったのです。あの当時はやらなければいけないもの…と思っていましたが、運動が苦手でレギュラーにもなれないのに時間と体力を使うべきではありませんでした。どうしても何かに入部しなければいけないなら、もっと体力と時間を使わないこと、もしくはやりたい勉強に近い部活を選ぶべきだったと思います。部活動をせずに、学校に残って勉強したり、図書館で勉強すれば、帰宅するまでにある程度勉強出来て、団らんをしようと待ち構えている親に余裕を持って応じることができたでしょう。勉強するスペースが家にないことや、勉強する時間を親に与えてもらえないことは、三者面談の時や、面談の前に先生に相談すべきでした。先生から親に対して助言をしてもらえれば、少しは変化があったかもしれません。それと何かになりたいという強い希望があり、そのためには〇〇高校、〇〇大学に進学する必要があるとわかっていれば、先生に勉強時間や勉強方法、勉強するスペースの確保について相談し、先生から親に話してもらうことも出来たかもしれません。しかしこういう発想は当時は考えもしませんでした。自分だけで悩むのではなく、第三者への相談がとても大切だったと後悔しています。社会人になってからは、夜間高校で勉強をやり直したいと、実はずっと思っていました。実現することはありませんでしたが…。少しでもコンプレックスを埋めようと会社で昼休みに数学の本などを読んでいると「何読んでいるの?」と周囲の人に聞かれて、小心者の私は答えることなく読むのをやめてしまいました。私は母に対しては馬鹿正直過ぎたと思います。母がモンスターのような親なのですから、こちらもそれなりに対処すべきでした。何曜日の何時から何時までは残業があるとか、〇〇の習い事があるなどと言って、どこかの貸スペースや、長く居られる喫茶店、もしくは夜間も利用出来る公共施設などで、勉強しても良かったかも知れません。母親は私の部屋にテレビを置くことも許してくれませんでしたが、母を無視してテレビを買って、教育テレビで勉強しても良かったと思います。いつも干渉されて、強い接触を要求されていると、悪い状況を打破する方法を模索する発想が湧かなくなってしまいますが、誰かに愚痴をこぼすなどして第三者に相談すべきだったと今は思います。私に悩みがあっても相談にのるどころか、悩み自体がくだらないことと決めつけ、子供を否定する親の影響で、私は無意識のうちに他人に相談するという発想が湧かなくなっていました。愚痴をこぼすということもありませんでした。今のようにネットで不特定多数の人に相談したり出来ない時代で、誰かに相談しようとすると母の耳に入ってしまうような狭い人間関係しかありませんでしたが、家庭内の実情を知られてしまうので母を知っている人に相談することはあり得ませんでした。相談するとすれば先生や母を知らない私の友人などに限定されたかと思います。せめて先生に、どの教科から手をつければいいかわからないこと、自宅では勉強する環境がないことをを伝えれば良かったのだと思います。実情を話せば、前向きで適切なアドバイスを受けられたでしょう。当時は劣等感の塊で勉強の方法を誰かに尋ねるなど全く思いつきませんでした。私1人で母と戦うのではなく、第三者へ相談することが当時の私に最も必要なことだったと思います。
【父の生い立ち】
父は農家の八人きょうだいの末っ子です。農家と言っても小さな田んぼと畑しかなく、あまりお金はなかったようですが、作物を作ったり、山川で木の実や魚、山菜、自然薯(じねんしじょ)などを採ったりできる環境で、種類は少なくとも食べ物には困らなかったと本人が言っています。父は中学校を卒業後自動車修理の会社に住み込みで就職し、20代後半で結婚しました。祖父は父が結婚するときに家付きの土地を購入してくれました。新築ではなく古い平屋でトイレは外にあり、隣には父の兄の家族が住んでいました。明治生まれの祖父は日頃は質素倹約して、父のように実家に残れない子供のために貯金してくれていたのです。とても立派ですね。父は祖母が37歳の時の子供で、きょうだいは長男と三男が戦争で亡くなり実家は次男が継いでいました。その他に兄が2人、姉が2人います。次男と父は16歳離れています。末っ子の父は可愛がられたでしょうが、おそらく色々な物事に父の意見を挟む余地はなかったでしょう。だから何かを決める時、父はいつも人任せです。自分が積極的に何かを調べて計画を立てようという気持ちもないし、事前に意見を出すこともありません。子供の進路などを考えている様子も全くありませんでした。いつも周囲が決めたことに乗っかっている父です。その代わりに大声を出したり、人を威圧するようなことは一切ありません。在職中は十年一日のごとく判で押したような毎日を40年以上繰り返す日々でしたが、そのおかげで家族は生活に困ることはありませんでした。現在90歳を過ぎていますが、地域の清掃や公園緑化活動に精を出し、仲間に恵まれて毎日を送っています。因みに父の父は83歳、父の母は99歳で亡くなりました。兄姉に囲まれて育ち、年齢が高くなっても盆正月には親に接する機会があった父は、母に比べて幸せだったと思います。
【母の生い立ち】
県の郡部の山あいの小さな町の出身です。戦前生まれで終戦の時は7歳でした。親戚には教師が多いのですが、父を幼い頃に亡くしたため高校には行けず、中学校は病気のため長期間欠席、中学校卒業後は家を出て、製糸工場に就職し、結婚するまで9年ほど会社の寮に住んでいたようです。寮では起床時間や消灯時間が決まっていたようで、皆一斉に仕事を始め、一斉に就寝する生活をしていたと母が言っていました。私に対して時間になったら寝るよう執拗に叱責したのは、寮生活で自分がされたことをそのまま私にしていたのではないかとも思います。戦前戦後に子供時代を過ごし、父をごく幼い時に亡くし、貧困のために15歳で親元を離れて寮生活をしていたので、寮を管理する方から受けた指導は、そのまま親からの指導と受け止めていた可能性があります。起床、消灯時間を決められ、常に会社の管理下に置かれていた母は、子供を同じように扱うのは親として当然と思っていたのかも知れません。母はまだまだ親の庇護の下、家庭で生活するべき年齢で実家を離れ、親からの愛情も十分に受けられず、家庭というものがどういうものか、教育というものがどういうものか経験することなく大人になってしまったのだと思います。また母の弟は男だからという理由で親戚が援助して高校に行かせてもらい、卒業後地元では一流に属する企業に就職しています。学問を身につけたおかげで、信頼できる会社に就職して生涯安定した収入を得ていました。母は口には出しませんでしたが、生涯この事を意識していたように思います。弟に追いつきたいと…。多感な15歳の時から数年間家族から離れて生活をしていたことが、母の人格や生活習慣に多大な影響を与えたことは想像し得ます。母のイメージする親とは仕事や寮生活を管理し取り締まる上司や寮母だったのかも知れません。15歳までしか親元にいられなかったことが、その後家族に強い執着を持つ原因になった可能性もあります。昭和一桁生まれの父と結婚した後は、家族のため家事や子育てを頑張ってくれました。専業主婦が当たり前だった時代、家族には言えない不満も色々あったことでしょう。また仕事は真面目にするけれど、会話が成り立たない父にも言いたいことが色々あったでしょう。父がもう少し常識的で母と会話が成り立つ人であれば、子供の教育について話し合える関係であれば、妻はいつも家にいるもの…という考えの人でなければ、もう少し母の心理も違っていたでしょうし、子供がやるべきことを奪うような母ではなかったかも知れません。
【無気力になるには理由がある】
私は本来とても活動的な人間だと思っています。一人暮らしを始めてからは、生活費を稼ぐために残業を多くこなし、休日は家事をし、毎日手づくりのお弁当を持参し、資格取得のために平日は1〜2時間、休日は7〜8時間を勉強に費やしました。お弁当作りも勉強も母と同居していたら出来なかったことです。同居していた時は、習い事を始めると「収入にも繋がらないのに何でやる」と母から言われたことがありました。このことが頭に残り、その後長い間、収入に繋がらない習い事をしてはいけないんだ…という強迫観念のようなものに縛られて習い事をしませんでした。後年になってきょうだいから、「何で習い事しないの?」と言われたことがあり、きょうだいが私をそういうふうに見ていたことを初めて知りました。私は成人してから色々な方に真面目だとか、遊ばないから駄目とか言われましたが、どうやって遊べばいいかもわからないし、遊ぶ相手を見つけることもできませんでした。唯一やりたいことは勉強でしたが、母に妨害されて出来ず、何も積み上がっていません。外に出ればいじめられたり、能力不足を指摘されたりして、常に悩みの多い日々でしたが、悔しさを勉強や特技を身につける努力に替えることも出来ず、時間が経ち年齢を重ねると、今更何をどうすればいいかわからなくなっていきました。自宅にいてもやりたいことをできず、母が望むことをさせられる日々でした。母が私に望んでいた事の一つに、自宅に母の知り合いが訪問した時、一緒にお茶を飲んだりニコニコと話をして参加して欲しい…という事がありました。母は自分の娘を知り合いに紹介したいという気持ちもあったようです。実際に人付き合いが好きな母のところには、ご近所の方や友人などが良く来ていたのです。来客があることは特に迷惑ではありませんが、やらなければならないことがあるのに、一緒にお茶を飲んで会話に参加してと言われることは、私にとっては迷惑でした。私は友人ができにくく、いつも劣等感を抱えていたのに、母の知り合いの前だと急に「いいお嬢さん」を演じなければならないことにも違和感がありました。最も嫌だったのは、その人たちがいるせいで居間や食堂にお茶も気軽に飲みに行けず、化粧もせずにリラックスしている姿を遠慮のない人たちに笑いものにされる事でした。恐らく非難している意識はなく、軽い気持ちなのでしょう。親しくしている友人の子供だから、ちょっといじっても大丈夫だと思っているのでしょう。でも何でそんなこと言われなければいけないの?というのが私の正直な気持ちでした。社交的なことが一番大事と思っている母は、自宅に尋ねてくる友人がいることが自慢だったのでしょうが、私にとっては自宅にいても落ち着けない事柄の1つでしかありませんでした。大人と子供の境界線をしっかり引き、あいさつが終わったらやることやっていいわよ…という母ならば、私のストレスも少なかったでしょう。大人と子供、家族と他人の境界をなくそうとしている母と、境界を超えて踏み込まれる事に大きなストレスを感じている私とは、どこまで行ってもわかり合える事はありませんでした。日頃からの母の干渉からくるストレスと、頻繁な来客のために帰宅しても気持ちが落ち着かないことが多く、来客のために帰宅せずに外で時間を潰す事もしばしばありました。私の中にはイライラや無気力、あきらめといった感情が常にありました。やることと言えばテレビを見るか、新聞や漫画を読むか、家事をやるか、散歩するか。母は子供と一緒に過ごせれば満足なので、私がテレビを見ていても何も言いませんでした。でも私の心は満足していません。母に許された範囲で何かしようとするとテレビを見るしかないから見ているだけなのです。次第に私は気分が落ち込んで、うなだれた頭を持ち上げる気力もなくなっていったのです。常に母親に干渉されていたため、何かを判断したり、決定しなければならない時に自分で決めることができず、母がどう思うか?というのが判断基準になっていきました。子供といえども何かをやっている時はそれなりの動機があります。家族や世間に迷惑をかける行動でない限り、それを止める必要はないと思うのです。今振り返ると私は馬鹿正直過ぎたのだと思います。母のように何を言っても勝ち目がないタイプの親とは真正面から向き合わず、もう少し考えて行動すべきでした。駄目と言われた事を素直に受け止めずに、私のほうがもっと頭を使うべきでした。他人に相談することも必要でした。自宅と学校、自宅と会社以外の第三の場所を見つけるべきでした。私が夢中になって勉強などのやりたいことに取り組めるスペースを探す事に全力を傾けるべきでした。時には費用の捻出も必要だったでしょう。学生ならば図書館や学校で勉強できるでしょうが、社会人になるとなかなか勉強する場所は見つけにくいです。喫茶店も長時間はいられないし、図書館も夕方で閉館してしまいます。考えられるのは費用を出して時間借りするスペース。この時代、あまりそういった場所もありませんでしたが、何とか費用を捻出して、こういった場所捜しをする方が、母と無駄な論争を繰り返すより、よほど有益だったと思います。
子供が無気力になる原因は、過干渉、親の判断で子供がやっていることを止めさせること、子供が自発的にやろうとしている事を親が奪うこと、親が勝手に子供の行動範囲や人間関係を決めること、子供のテリトリーに親が勝手に日常的に踏み込む…など、親側が子供が大きくなっても幼児に対して行うような接し方をやめないことにあると思います。子供は弱い立場です。食べさせてもらって生活させてもらっている親から駄目と言われたら諦めるしかありません。一度ならず何度も子供が自発的にやろうとしていることを否定し、そんなことは役にたないとか、時間の無駄とか、やるべきは他にあるとか言って子供の行動を阻止したり、親のテリトリーに無理矢理子供を引き込んだり、行動範囲を勝手に狭めたりされては、子供は神経を抜かれた腑抜けのようになって次第に引きこもり、自発的に何かをすることが出来なくなり、私のように見たくもないテレビやネットを虚ろな目で見るしかやることがなります。子供は親とは違う人生を歩むのです。社会に対しての役割も親とは違うのです。どうか子供がやりたがっていることを制止しないで下さい。子供のやっている事を否定しないで下さい。できれば援助してあげて下さい。そのほうが親子の未来は明るいでしょう。親の干渉で子供が元気を失くしたら、立ち止まって子供への接し方を考え修正して下さい。何が嫌なのか、困っていることはないか、子供自身から話を聞いて下さい。その時、悩みを否定したり、恫喝してお尻を叩くような励まし方はしないで下さい。親の接し方に苦情を言われたら、一旦受け止めて下さい。恐らく子供からは「もっと自分に対してのやることを減らして欲しい。何もしないで欲しい。お母さん自身の楽しみを見つけて欲しい。」というような事を言われるでしょうから。それを聞いて「こんなに一生懸命あなたに尽くしてきたのに…」とか、「まだまだあなたは私の判断や助けが必要」とか、「私のやる事を奪うつもりなの!」とか、「そんなこと言うなら家から出ていけ」などと言いたくなるでしょうけど、ぐっとこらえて下さい。「あっそう、あなたも大人になったのね。これからはあなたの邪魔はしないわ。私もやりたいことを見つけるわ。」と返して欲しいのです。子供は何も絶縁するとは言ってません。過干渉で苦しんでいる事を訴えたいだけです。そして親にこの事を訴えた時は相当悩んだ後に言っていると思って欲しいのです。「もう本当にやめてよー!」と言いたいところをオブラートに包んで若干ソフトに言っている事もわかって欲しいのです。ここでも親に気持ちを受け止めてもらえないと、子供自身も家族も得体の知れない洞窟に迷い込んだように、次第に深刻な事態に直面することになるでしょう。鳥が卵から孵化したら、親は一定期間一生懸命餌を探して飛び回り雛に与えます。そして育ち終えたら雛は自分自身の翼で空に飛び立っていきます。この時親鳥が雛の足に紐をつけて飛べる距離も、行き先も管理したらどうなるでしょうか?雛はノイローゼになり自分で餌を探す方法もわからず、つがいになる相手を見つける事もできなくなるでしょう。親の援助はノーサンキューと子供からサインを出されたら「ついにこの時が来たか。やっと私のやりたいことが出来る!」と喜んで欲しいのです。寂しいかもしれませんが、親と子がそれぞれやりたいことを見つけ、それぞれ充実して生きて、必要な時にはお互いを助け、寄り添う関係の方が、親子関係が健全だと思うのです。お互いに寄り添う相手、よりかかる相手、元気をもらう相手を子供以外、親以外にも作っておくほうが、お互いが楽になり、もし一方を失った時、精神面なダメージを少なくすることが出来るでしょう。
【私の精神を悪化させた親の言動・行動】
- 大部分の子供が持っているもの(おもちゃや流行り物)を買うことを許さず、子供が孤立する原因を作る。
- 歯磨きを教えないなど、一般常識に欠け、子供が外で恥をかいても気がついていない。
- 頼んでいないのに色々なことを先走りして、子供がやることを奪う。
- 根本的な問題を解決する努力をせず、大声を出して子供を恫喝して黙らせる。子供から苦情や意見を言われると、家から出ていけと言う。
- 子供の話に耳を傾けず、子供が苦しんでいたり、悲しんでいても共感の姿勢を見せず、(そんなことで悩んで)私の子供ではないみたいだ!などと言って子供の人格・行動を否定する。
- 成人した子供に対しても、就寝時間や自宅での過ごし方まで制限して子供をコントロールし、親が決めたルール・枠に子供を押し込める。
- 子供の未来に関心がない。
- 家庭はこうあるべきものという理想を押し付ける。
- 子供を家庭という狭い世界に閉じ込める。
- 子供は親と違う人間だという認識がない。 子供は自分から生まれたのだから、何をしても大丈夫、何をしても縁は切れないという考えでいると、親子の関係にヒビが入る。事前に相談もせずに物事を勝手に行ったり、勝手に決めるのは言語道断。行動する前に話し合いを良くして相談の上で誰が何をやるのか、何を選択するのか決めてほしい。親子は一心同体ではない。子供の成長に伴い、判断を子供に任せることは必要不可欠。親はそのサポートにあたり、十分に成長している子供に対して、赤ちゃんのように接することは断じてやめて欲しい。子供は学校や社会で色々な人に接している。年齢も上がり体も大きくなっているのに、自宅に帰ると急に自分を幼児の時と同じように接する親がいて、こういうのはそろそろ自分で決めたい、やりたい…と訴えても素直に受け止めず、子供に対して対抗意識を発揮し、子供がやるべきことを奪う親にはならないで欲しい。こういう親に接すると子供の頭の中は混乱し、やがて自分の成長を阻む親に強い恨みを抱くようになり、無気力になってしまう。親はそういった訴えを聞いたら、「ああそうか、〇〇も大人になったんだな」と受け止めて、やることが減って良かったと喜んで欲しい。このタイミングで、私の母のように「私のやる事を奪って、私をボケさせる気か!」と子に反発して今までと態度を変えないと、子の成長のチャンスを奪い、親子の関係は悪化し、子は精神を病んでいく。間違わないで欲しいのは、子に関わる機会が減ったからと言って親子の関係が切れるわけではないのだ。親は少しづつ子に対する態度を変えて、何かを相談されたら応じて欲しいし、危ない目にあいそうになったらブレーキをかけて欲しい。そして親側も子供以外の外の世界に目を向けて見識を広げて欲しい。それが将来親子の関係に良い影響を与えることだってある。年齢が進んだ子供に対しては、気持ちを尊重して接する事が大切だ。
- 子供の個性を大切にしようという認識がない。
- 子供が能力を身につけることを喜ばず、親に対抗して能力を身につけようとしていると考える。
- 子供がもがきながら考えて蒔いた種を全部潰す。やる事をなす事否定する。 否定グセのある親は、知らず知らず、子供のやる事なす事を否定している。何故そんなことをするのでしょう?そんなことをして何になるのでしょうか?失敗したら子供自身が立ち止まって考えればいいことです。子供のやることなすこと全てに口を出し、子供を全否定すれば間違いなく嫌われます。私は母がこの世からいなくなればいいと思ったこともしばしばあります。でも本当はそう思いたくなかった。だから改めるべきところは改めて欲しかったのです。
- 勉強する機会を与えない。遊ぶ事を必要性以上に制限する。遊びのアイテムを与えない。勉強も出来ない、遊びも知らない、特徴のない子供は、周囲から浮いてしまいます。子供同士であってもお互いの様子を観察しつつ人間関係を築いていることを無視しないで欲しい。子供同士の会話が少しでも広がるよう、子供の個性やキャラクターを作る過程を親が妨害しないで欲しい。
- 日常の枝葉末節なことに逐一口を出し、大事な相談には知らんぷり。母は私がやることなすことに口を出し、ブレーキをかけましたが、理由の説明はほぼありませんでした。予め決めていたルールにそむいた…と言うならまだわかりますが、理由の説明も無く、その時々で行き当たりばったりの注意や叱責をすることは子供の心を混乱させます。何処に行っても行き止まりで出口が見つからない迷路を進んでいるような気持ちに陥ります。私が母に望んでいた事は、とにかく私を放おっておいて欲しいということ。家族や社会に迷惑をかけている行動でない限り見守っていて欲しかった。しかし母が生きている間は叶いませんでした。いつまで起きている!と私に怒鳴るのではなく、私が頑張っていることの進捗を尋ねてくれるような親ならば、全く違う展開になっていたでしょう。そして人生の節目に当たるような大事な相談には、真剣に応じて欲しかった。
- 子供に子供らしい事をさせずに、大人向けのテレビ番組を見せ、学校で皆が持っているものを持たせない。子供は大人ではありません。子供らしいことをさせないことは学校で子供が孤立する原因になります。
- 子供の友人を小馬鹿にする。やっと出来た子供の友人を馬鹿にしないで下さい。親が認めてくれない人なんだ…と思い、その友人と距離をおく原因になります。親の言動が原因で子供はますます孤独になります。
- 子供が体調を崩し、無気力、覇気がない状態になっても、親の接し方が原因とは微塵も考えず、色々な療法に連れ回す。母は私の元気のない様子を見て何とかしようと思ったようで、どこからか聞いて来た保険診療の対象ではない治療院へ私を通わせました。母と一緒に遠方の治療院へ数ヶ月通った事もあります。このような療法には高額な費用が伴います。母は高額な費用を私に対して負担出来ることに自負し、施術をしてくださるその世界ではちょっと名の知れた先生と接点を持てることに喜んでいたフシがありました。母と一緒にずいぶんこういう場所に通いました。先生が私を診ながら「大物が来た…」というような発言をすることもありました。恐らく重症という意味なのでしょう。高額なお金を毎回払い、こういう場所に何度も来ると、本当に自分は重大な何かの病気に罹っているように感じてきます。母の方針で動物性の物を食べない極端な食事制限をした事もありました。日頃から母の管理下にあるうえに、母に伴われ治療に通い、極端な食事制限までして栄養不良に陥り、まるで本当の病人のようでした。当時母は自分が信じた事を実行して、精一杯のことを私にしていると思っていたのでしょうが、今振り返ると色々と的外れだったと思います。子供の話をよく聞き、もっと以前に私を母の管理下におくことをやめていれば、私の精神状態や体調も悪化せず、そもそもこういう場所に来なくて済んだはずなのです。
- 精神的に限界がきている子供の心理状態に気づかず、子供に対する態度を変えない。子供から強く恨まれている事に気づいていない。過保護、過干渉、強い締付けにより、親に反抗することも、暴れることも許されず、やりたいことも出来ないストレスは、子ども自身の内面に向かっていき、子供の心を破壊していく。
【母の死後の私】
包み隠さずに言えば、私は母が亡くなった時、また会いたいという気持ちと、いい気味だ…という気持ちが混在していました。しばらくすると母が亡くなって初めて、私は第2の人生のスタートラインに立てたのだとも思いました。私という人間を尊重せず、監視、干渉を続け、いつまで経っても私を大人扱いしない母がこの世から居なくなり、私の苦しみはかなり減りました。私はとても家庭的で主婦の鑑のような母が亡くなって喜んでいる自分にも違和感を感じていましたが、それなりのことを母親からされたから仕方がないとも思っていました。「毒親」という言葉がありますが、私は母が毒親なのかも知れないと思ったのは、母が亡くなってからかなりの年数が経過してからです。私が母からされたことは非常に稀有なことで、やはり異常なことなのではないか、毒親と言ってもいいのではないかと、ある時気づいたのです。母が亡くなってから20年近く経過しても、私は母からされたことが心と体から離れず、時折当時の私の感情がフラッシュバックして涙を流したり、歯を食いしばったり、イライラしたり、母に対する怒りが湧いてきたりすることがあり、相変わらず苦しんでいました。私と同じような体験をしている方の映像や本を見たときも感情が揺れてしまうことがありました。どうすれば無意識に襲ってくる感情の波を落ち着かせることができるのかわからず、自分の心を持て余していました。旅行をしたり、友人と会ったり、楽しい経験を積み上げれば、マイナスの感情は出て行くのかもしれないと思ったこともありましたが、いくら旅行しても、友人に会っても、負の感情が完全に無くなることはありませんでした。私の心の中には、つらい記憶と共に、母には育ててもらったのだから感謝しなければならない、だから憎んではいけない…という気持ちもありました。私は母に対して憎しみを持ちながらも、毎日母の写真にお水をあげ、時折お菓子を供えることを何年も続けていました。その写真は私がリビングに座ると必ず目に入る場所にありましたが、ある時耐えられなくなったのです。写真を見ただけで怒りが湧き、涙があふれるようになりました。それからは写真を常時目に入らない場所に移動し、お水を毎日供えるのをやめて、母を毎日意識しないようにしました。そして母を憎んでもいい…と思うことにしました。母が生きている間は私だけが一方的に苦しめられ、私が母に罰を与えることはできなかったのですから、見せかけの感謝をする行動はやめました。私は我慢し過ぎました。こんなに長い間苦しんでいるのだから、私は何らかの罰を母に与えてもいいのではないかと思い始めました。しかし母はもうこの世にいません。直接文句を言うこともできません。できることと言えば母の写真を踏みつけることぐらいでした。かなりためらいましたが、私は母の写真を踏み絵にすることにしました。倫理的にはやってはいけないことです、勿論。こんなことをしている自分にゾッとしている私もいます。でも他に私の心を救う方法が見つからなかったのです。踏みつけると母に対する憎しみや、写真を踏む罪の意識が沸き上がり、一時的に私の精神は興奮しますが、その後心の中が少しスッキリしました。母に対する憎しみは、私が誰にも認められないと感じる時や、能力不足を身にしみて感じる時にも湧き上がりました。そういう時に私は自宅に帰って母の写真を踏みつけていました。母に対して「こういうことをされても仕方がないことをあなたはしたんだよ」と言いながら。その後も何度か写真を踏みつけ、母に対する怒りは少しづつ減っていきました。感情のフラッシュバックや、母に対してのイライラや怒りも鎮まっていきました。感謝もするけど、憎んでもいいんだという心の持ち方と、写真を踏むという行動が私を救ったのです。年月を経ただけでは傷んだ精神は修復できないのだと身をもって実感しました。決して生身の人間に危害を加えてはいけませんが、こんなことで心が救われるのならば、多少の行儀の悪さもお許し頂きたいです。今も母の写真は常時私の目に入らない場所にあります。毎日お水を供えてはいませんが、時折お菓子を供え、お正月にはお膳を供えています。憎しみの感情はまだありますが、育てて貰った事実は変わりませんし、家族のために尽くしてくれて、経済的にも多大な貢献をしてくれた母へ、せめて私が生きている間だけでもお礼がしたいからです。
【両親の生い立ち・人生に関心を持つ必要性】
今回ブログを書くにあたって両親の人生を辿りましたが、生い立ちや生きてきた環境や外的要因が、性格や発想、生活習慣に強く影響していたことが想像できます。両親は戦前に生まれ、戦中、戦後と混乱していた時代を生きてきました。人生で1度も戦争を経験していない私には想像を絶する経験をしてきたことでしょう。母はその痛みを癒せないまま人生を終えたのかも知れません。戦争で親きょうだいを失い、物のない時代を生き抜き、貧困から人並みに学校にも行けず、早くに親元を離れなければいけなかった母の人生。母は戦争で全てを失くし、そこから這い上がっていく女性を描いた映画の主人公の生きざまを手本にしているようなところがありました。主人公は時にハッタリや大胆な行動で周囲を驚かし、欲しいものを手に入れますが、母はその点を非常に評価していました。母は失われたものを手に入れる手段は地道な努力だけでは無理なのだと心の何処かで感じ、共感していたのだと思います。両親がいて戦争も経験しておらず、極度の貧困でもなく、親元で成人後も暮らしている私に対して、自分(母)の人生に比べれば痛み苦しみなどあるはずないでしょうと思っていたふしを、私はあちらこちらに感じていました。悲しみや苦しみを経験したことが母の強さにもなり、他者を思いやることに欠ける原因にもなっていたと思います。子に強く当たるということは、同じように母が誰かに強く当たられていたから…なのではないかとも考えられます。私が苦しんでいた時は考えもしませんでしたが、私自身が親の人生に関心を持ち、親が子供の頃から結婚するまでどんな生活をしていたのかを知り、発想や生活習慣の元になるものが何なのかに思いを馳せ、親の心情を理解し、時には大変だったねと共感の態度を示すべきだったと思います。親も自分の人生について子供に知ってもらいたいと思っているのではないでしょうか? 時々親の生い立ちや両親の出会い、親自身が苦しかったこと、悲しかったことなどを親自身から聞いてみる必要があったと思います。そこに子供への接し方の根源となるもの、現在の親の考え方や生活習慣の元になるヒントが恐らく隠れているでしょう。
【私の心を救ったもの】
ズタズタに傷ついた私の心は、長年かけて最近やっと修復できたようです。母の写真を足で踏んだ…はトドメの一撃のようなもので、その事だけで心が修復出来たとも思えません。誰かに強烈に愛されて一緒に暮らすパートナーができれば、自分に自信を持てて、心が幸せで満たされるのではないかと思ったこともありますが、残念ながらそういうパートナーはいません。家族や友人や同僚、仕事上のお客様、習い事の先生、定期的に通っている美容師さん、マッサージ師さん、本、歌、映画などから、ほんの少しづつ愛を貰い、その積み重ねで心が修復できたのだと思います。国家資格を独学で取得し、実際にその資格を活かして仕事をするようになったことも大きいです。ずっと勉強が出来なくて劣等感を抱えていた私ですが、環境が整えば、私にも人並みの勉強が出来るのだと確認出来て、実際に役立つ資格を得られたことは強い自信になりました。そしてもし今も母が生きていて、私を監視し、強い接触を求め、団らんを強要し、勉強することを母に対する対抗意識だと思い、早朝も夜も勉強することを許してもらえないなら、私はいつまで経っても一人前の大人にならず心に問題を抱え、親子共々年老いて生きがいもなく、憎しみあって暮らしていたでしょう。本当にゾッとします。
【Mちゃんの家と私の家との違い】
Mちゃんの家と私の家の比較をしたいと思います。(ここではMちゃんの母をおばさん、父をおじさんと呼びます)Mちゃんの家は、お客さんや近所の方々、親戚、取引先など、常に人の出入りがあり、おじさんもおばさんも誰に対しても気兼ねなく、ゆるやかに接していました。だから私も良く遊びに行きましたし、うちの親に用事がある時に預けられたりもしていました。いい意味で緊張感が漂っていない家庭でした。しかし店舗兼自宅なので、専業主婦でないおばさんは常に誰かと接しなければならず、結構大変だっただろうなと今になって想像します。玄関を入るとすぐに茶の間があり、私もそこでMちゃんの家族や、お店の取引先の方などとお茶を飲んだりお菓子を食べたりしていました。いつも和やかで、おばさんやおじさんから「くだらない」という言葉を聞いたことがありません。子供が芸能雑誌を見ていても、高校野球の人気者の情報収集をしていても、咎めることはありませんし、親が必要以上に子供に対して威厳を示すようなこともなかったと思います。私の家では子供がテレビを見ていると、父が無理やりプロ野球やニュース・経済・ドキュメンタリー関連の番組に替えました。どんなにこの番組面白いよと言っても通じないのです。チャンネルを替える理由は定かではありませんが、子供に同調したくないとか、父の威厳を示したいとか、自分より長い時間テレビを見ることが出来る子供にいじわるしたい…という気持ちもあったのではないかと思っています。父は居間にいる間はテレビしか見ておらず、家族が会話すると(テレビの音が聞こえなくなって)「うるさい」と言いました。家族と会話したいという意思が全く感じられないのです。何かを決めなければいけないときも、父がテレビを見ているので、他の家族だけで決めると、後日になって「事後承諾だ!」怒りだす有り様でした。
Mちゃんの家は自営業なので常に両親が家にいます。だから私が遊びに行くと、おじさん、おばさんからよく声をかけてもらいました。Mちゃんは私と同じ運動部で、私もMちゃんもレギュラーではありませんでしたが、おじさんから「レギュラーでもねえのに何が部活だ!?」と言われたこともありました。今思えばごもっともな指摘です。部活はやらなければいけないものと思っていましたが、このちょっとした指摘を無視せずに、やめて他の事をすることを真剣に考えてみるべきでした。人生の軌道修正のヒントは実はこういった身近な人の発言に隠れているのかもしれませんね。そしてMちゃんの両親は子供が悲しんでいたら味方になり、寄り添っていました。私の親のように悩むこと自体が情けない…と叱りつける励まし方ではありませんでした。私は長い間、親からされたことが原因で精神的に苦しみましたが、少なくともMちゃんからそういう悩みを聞いたことがありません。苦しい時は身近な人からの共感や温かい励ましがいかに重要なのかを感じます。大人になってからもメンタルを健全に保てている人は、子供時代から身近な人が適切に励まし、共感し、助けていたことをМちゃんの家族から感じます。私の場合は家庭外で悩みが発生しても、家族から慰めてもらったりする事がなく、更に悩みを増長することをされていたんだな…と思います。また私の両親、特に母がちょっとでも生活を良くしたいという思いの強い人で、家の改築や移転を伴う新築を繰り返しました。それは家族が生活しやすいように、家族が増えても暮らしていけるようにという考えではなく、おじの家の間取りと同じにしたいとか、葬式を家で執り行えるようにとか、よそからみた時にカーテンが美しく見えるように…などいう摩訶不思議な理由でした。また母にはプライバシーを尊重するという発想が無く、その母が間取りを決めるため、家族にとって暮らしにくい家が出来上がってしまい、そこで家族は不満を持ちながら生活していました。レジャーを計画することはほぼなく、お金を稼いでも家の改築費用にたくさんのお金を使っていたと思います。おそらく母の心の中には、人並みの家に住んで、親戚やきょうだいを見返したい…という気持ちがあったのでしょう。いつも母が意識するのは家族の気持ちではなく、家庭外の人への対抗意識や見栄でした。家庭それぞれ暮らし方も家族の希望も違うのに、家族の希望はほぼ無視して、強い権力をもった母に強引に押し切られて物事が進んで行くのがわが家でした。
Mちゃんの家は外に向かって見栄を張ったり、必要以上に良く見せたい…という雰囲気は感じられませんでした。家にはお金をかけませんが、出来る範囲でちょっとした楽しみを見つけていたのだと思います。私を習い事やちょっとしたレジャーにも誘ってくれました。それが私にとっては良い刺激や見えない財産になっています。そしてMちゃんの母親は長年続けている趣味があり、定期的に教室に通い、発表会に出たりして楽しんでいるようでした。そのお仲間もいたでしょう。習い事に行くことで、母・妻・商売人の立場をちょっと抜け出し、おばさん個人としての時間を楽しんでいたのだな…と今になると理解できます。一方私の母はそういった趣味はありませんでした。数ヶ月だけ華道教室に通ったことがありますが、病気をきっかけにやめてしまい、再度通うことはありませんでした。月謝を払うのが勿体ないと思っていたのか、教室の方々と馴染めなかったのか、理由は定かではありませんが、母にも家庭外に何らかの趣味があれば、家族に向ける意識や物事に対する視点、家族との関わり方が少しは違っていたのかもしれません。
【過保護・過干渉で子供のやる事を奪い、勉強させない虐待をしている親の立場の方へ】
私の母親の世代は夫が帰宅する時には必ず妻が家にいて、夕飯をすぐに出せるように準備しておくのが当たり前でした。わが家でも父親がそういうことを母に要求する人だったので、私が子供の頃、帰宅が遅くなって父親から叱られて泣いていた母を見たことがあります。母は家庭外での活動を制限され、その代償として家の中での活動や、家族に干渉することへエネルギーを振り向けざるを得なかったのかもしれません。母の場合はまず自分の生きがいを家庭の中に見つけることが第一だったのだと思います。私がお弁当を自分で作ると「私を呆けさせるつもりなのか!」と言ったり、私がやろうとしていたことを断りもなくやってしまう原因の何%かは、家庭外の行動を制限されていたストレスからくるものだったのかもしれません。母の気持ちとしては家族や子供の世話をして尽くしている、自分の判断や行動は家族のためになっている、そして家族のために自分を犠牲にしている…と思っていたのでしょうが、実際は度が過ぎて家族を追い込んでいました。子供への関わり方が、教育や個性の醸成を手助けするのではなく、過干渉の上、行動を制限して自分の思い通りにコントロールすることだったため、年月の経過と共に母の思いと子供の心に大きな隔たりが生まれました。しかし母は子供の心を察することはなく、私からの訴えをことごとく無視しました。私は学校でも社会でも家庭でも居場所がなく、心が限界に達していても強い母親に逆らうことが出来ず、長年に渡って我慢してきた鬱屈した怒りを心に抱えたまま、死んだような心で毎日を過ごすしかありませんでした。母は私という人間をどうしたかったのでしょう?子供をコントロールし行動を制限した結果、何か良いことがあったのでしょうか?何も良いことなどないのです。母の心がその時々で満足していただけで、実際は前向きなことは何ひとつありません。子供が親に何かを訴える時は、それなりの理由があります。その時々の思いつきで言っているわけではなく、話すきっかけを10回ぐらい逃して、勇気を振り絞ってやっと言っていると考えるのが妥当だと思います。だから子供の訴えには耳を傾けて欲しいのです。私は母に何かをやって欲しいと要求していたわけではありません。私が母にしてほしかったのは次の6点だけです。
①子供から頼まれていないことを勝手にやらないで欲しい。 ②子供がやりたいことを黙ってやらせて欲しい。 ③子供のテリトリーに踏みこまないで欲しい。 ④子供から助言を求められたら、何からの意見を言って欲しい。 ⑤子供の敎育について第三者の意見を聞いて欲しい。第三者の力を借りて欲しい。 ⑥親自身が子供とは関係のないところで何らかの生きがいや趣味を持って欲しい。
簡単ではないですか?「子供に関わる親の行動を減らして、子供のテリトリーに勝手に踏み込まず、子供から相談されたら寄り添い、第三者に助言を求めて力を借り、親自身も子供とは関係のないところで生きがいを見つけて欲しい」端的に言えばこのようなことです。必要以上に子供を管理・干渉せず、好きな事をさせて欲しいのです。子供絡みの親の行動が減るので、親も楽になるはずです。そしてその方が親子の関係も良くなるでしょう。知らず知らず子供を駄目にして、子供から恨まれてしまう親はこれが出来ないのです。でも今日からはぜひ実行して頂きたいです。できるだけ早く子供に対する態度を変えて頂きたいです。親の管理下で長い間コントロールされた子供は、最初何をしていいかわからなくなるかもしれませんが、何に興味を持つのかそれとなく観察しつつ、自分探しをするのを見守って欲しいと思います。次第に子供が元気を取り戻し、親子の関係も改善されていくでしょう。親が怒鳴って子供の行動を制限しそうになったら、立ち止まって深呼吸し自分にブレーキをかけて欲しいです。そもそも親のこだわりや子供に対する要求は真っ当でしょうか?自分の考えや行動が正しいかを誰かに評価してもらったことがありますか?恐らくないでしょう。親自体がコミュケーション能力が欠如していたり、変わり者で世間と交流が少ないために、子供を思い通りにコントロールすることでストレスを解消しているケースも多いのではないでしょうか?子供にきつい注意をすべきなのは、子供が社会に迷惑をかけるような行動をした時、危険な行為をしようとした時、怪しい人物と交流をもった時などであり、長年に渡って日常的に厳しい締付けや注意、監視を行えば子供は萎縮し、心の病気になり、親に対して怒りや恨みを溜めることになってしまいます。子供に適切な教育をせずに、やる事を親が奪ってしまっては、社会に出た時に通用しない人間が出来上がってしまいます。私の母親の場合は、私からどんなに「そんなにあれこれお母さんがやってしまったら、お母さんが死んだあと、私は生きていけないでしょう?お母さんは私が生きることを妨害しているの?」といくら言っても通じませんでした。本来の親なら、子供が将来一人で生きていけるように色々な力を身に着けて欲しいと思うのでしょうが、私の母はいくら説明してもそういう発想がわかないようでした。逆に私(母)が居ないと生きて行けないでしょう?だから私(母)からは離れられないでしょう?とほくそ笑んでいるようなところがありました。自分が死んだあと子供は自分の力で生きていけるか、人間関係は築けるかなどの心配をしている様子は全くありませんでした。母の頭の中には、娘はお見合いをして結婚して子供を産むもの、という未来しかなく、それ以外のことは一切想定できないようでした。娘の結婚資金だけは貯金してくれていましたが、日常的に枝葉末節の事に口を出して子供がやるべきことを奪い、子供の考えや人格、希望を否定して恫喝し、子供の自由を奪い、子供の個性の醸成を阻害し、子供から生きる目標や生きがいを奪って無気力になるようなことを日常的に続けたら、子供は自己否定が状態化し、個性や魅力のない人間となり、常に将来が不安で、心の中には親に対しての強い怒りが充満し、勉強も仕事も人間関係も充実せず、自分に見合った結婚相手を見つけることなどできないのです。
親の過干渉で苦しんだ私から重ねてのお願いです。
①子供から頼まれてもいないことを勝手にやらないで欲しい。
頼まれていないけど、やってあげたら嬉しいでしょう?買ってあげたら喜ぶでしょう?と思うのは親の勝手な思い込みです。幼児でさえ、好みも意見も持っています。行動に移す前に子供に相談しましょう。それが親子関係の円満の秘訣です。
②子供がやりたいことを黙ってやらせてあげて欲しい。
子供が何かをやりたいと言っていたら、応援してあげて欲しいのです。世の中のあらゆる選択肢の中から子供がやると決めるには、それなりの理由があります。こうなりたいという希望も持っているはずです。それを実現するためには、時間や空間を確保する必要があります。まずそのことに協力してあげて欲しいのです。私の親のように何をやっているか確認もせずに、やみくもに中止させないで欲しいのです。興味を持ったことをやっていくことで、その子の個性を醸成し、魅力となり、特技となり、将来につながるかもしれません。親にとって価値があるかないかは関係ありません。子供の心に閃いた事柄や、興味を持ったことは大切に育てていかなければいけないものだと思います。人それぞれ生まれ持った運命は違うのです。子供個人の生きがいだけでなく、社会に対して益になることを生み出す可能性も秘めているのです。フレッシュな気持ちでやる気を持っている子供の心をどうぞ潰さないでください。今から歩き出そうとしている道に遮断器を下ろしたり、無理矢理進路変更させることはやめて、できる範囲で応援してあげてほしいのです。特に私のように外で友人も出来ず、孤独な人間は、1人でいる時に読書をしたり、勉強したりして、心の空洞を満たさないとやっていけない部分があります。そういった気持ちをわかってあげて欲しいのです。
③子供のテリトリーに踏みこまないで欲しい。
子供はこの世に生まれ出て、日々新しい経験をし成長しようともがいています。自我も芽生え、自分なりの価値観も生まれ、色々な人に出会い、色々なことを学び、色々なことを感じています。そういう生活の中で、親が踏み込んではいけないテリトリーも出来て来るでしょう。ここには踏みこまないで、立ち入らないでと子供から言われているにも関わらず、血の繋がった親だから、私が生んだ子どもだからと、子供のテリトリーにズカズカと踏みこまないでほしいのです。これは部屋など空間のことだけではありません。行動や人間関係も含まれます。部屋で危ないものを作っているのなら、立ち入って阻止する必要があるでしょうが、それ以外は放置してほしいのです。入ってほしくないテリトリーに踏み込まれ続けると、そのストレスが以外にも人の精神を蝕みます。子供の持ち物を勝手に処分したり、勝手に子供部屋のレイアウトを変えたりするのはもってのほか。子供側の気持ちとしては、トイレでほっとしているところに突然ドアを開けられたような、本人に何の断りもなく友人に秘密をバラされたような…そんな怒りの感情が湧いてきます。一線を超えて子供にストレスを与えないように、日頃からコミュケーションをとって欲しいのです。そして子供のことばを信じて欲しいのです。
④子供から助言を求められたら、何らかの意見を言って欲しい。
日常的に強い圧力で一方的に子供に命令をして子供の行動を制限し、子供の心に全く寄り添わず、意見を求められても適切な回答をしない親の態度は、子供を不安にさせ「親から大事にされていない」と子供が感じる原因となります。子供が判断や選択に迷った時には、一緒にどうしたらいいか考えて欲しいのです。何も答えないと親にとって自分はどうでもいい存在なんだと思うでしょう。子供は生まれて初めてぶつかる問題と何度も直面して、判断や選択について迷い、参考になる情報や親の考えを知りたいものなのです。人生経験の浅い子供に判断を任せず、一緒に考えてあげて下さい。情報が足りなければ誰かに尋ねてもいいでしょう。直接親が答えてくれなくても、一緒に悩んで答えを導き出してくれたら、子供は親に感謝し自信を持って次の一歩を歩きだすでしょう。前に進み出しても、また悩むことだってあるでしょう。その時にはめんどくさがらずに、再度相談にのってあげて下さい。子供は相談にのってくれた親に必ず感謝します。私の親のように相談から逃げることだけはやめて欲しいのです。ちょっとテレビを消して、家事をちょっと中断して、子供の話を聞いてあげて欲しいのです。
⑤子供の敎育について第三者の意見を聞いて欲しい。第三者の力を借りて欲しい。
私の親は敎育に興味がなく、子供の自発的な勉強を妨害する変わった親でしたが、子供がどの程度勉強を理解しているか、何を勉強しているのか、何の教科が好きなのかぐらいは関心を持って欲しかったですね。勉強させ過ぎの教育虐待も、勉強させない教育虐待も、閉鎖された家庭内では誰からも気づかれず、子供は長い間、親からの不適切な接し方に耐えるしかありません。子供は親に逆らったら生きていけませんし、他の家の様子を知らないので最初は素直に従うでしょう。でも子供から何らかの抵抗があったら、家庭内だけで判断せずに誰かに相談して欲しいのです。私の親は子供の教育について誰かに相談するのは三者面談の時ぐらいで、積極的に成績のチェックをするわけでもないし、何の勉強をしているのかさえ把握していませんでした。他の家庭の勉強の環境、勉強の時間、子供部屋の有無、部活動との兼ね合い、お小遣いの金額など共有する情報があれば、もう少し違った状況になっていたかも知れません。先生との三者面談でも成績についてしか話しがなく、いつどこでどのぐらい勉強するか、具体的な話はありませんでした。親の前では勉強する環境に問題があることも言えませんでした。振り返ると我が家のような家庭は、誰かが親に対して子供への接し方を指導する必要がありました。でも問題が家庭の中に隠れているため、表立って親の指導をする人は誰もいませんでした。子供の教育について、子供への接し方について、誰かが親へ助言し誤りを修正して欲しかったです。他人に対してはいつも朗らかに接していた母が、子供に対して家庭内で行っていたことに誰も気付けなかったし、母は自分がやっていることは間違っていないと信じているし、そもそも教育にあまり関心がないので、子供の勉強や成績を上げる方法を誰かに相談することもほぼありませんでした。子供の成績一つにしても、我が家の場合、親の発達障害の可能性や環境など、様々な家庭内の問題が関係していたと思われます。小さな問題でも放置せず誰かに相談していれば、もう少し何らかの変化があったと思います。母親どうしの会話の中で間違いに気づいて解決作が見つかったかも知れないし、子供自身から意見や悩みをもっと聞けば、そもそも家庭外の人に相談する必要もなかったでしょう。しかし親の威厳を保つことにこだわり、子供を1人の人として尊重していない母には、そういう発想は全く湧かなかったのだと思います。教育とは子の成長を手助けし、将来子供自身を助ける知識を学ぶことだと認識して欲しいです。親を超えるための手段でもありません。教育とは何をすればいいのかわからないなら、適切な塾、家庭教師なども利用し、家庭内にぜひとも第三者の風を入れて欲しいのです。そしてその人たちから何らの助言があれば、親は素直に従って欲しいです。下記は東大合格のための十ヶ条ですが、東大を受験せずとも、全ての家庭を健全に営む必要条件のようにも感じます。特に7の勉強に口出ししないこと…はやっぱりそうだよねと嬉しくなりました。全部は出来ないとしても、いくつか実行出来ると良いですね。
ドラゴン桜式 東大合格 家庭の10か条
その1 一緒に朝ご飯を食べること
その2 何か一つでも家事をさせること (男女問わず)
その3 適度に運動させること
その4 毎日同じ時間に風呂に入らせること
その5 体調が悪い時は無理させず休ませること
その6 リビングはいつも片付けておくこと
その7 勉強に口出ししないこと
その8 夫婦仲良くすること
その9 月に一度家族で外食すること
その10 この10ヶ条を父親と共有すること
※日常生活を大切にして、受験を非日常にしないこと、規則正しい生活により、勉強を習慣にすることが大切という趣旨のようです。
2021年ドラマ ドラゴン桜2第4話より引用
⑥親自身が子供とは関係ないところで、何らかの生きがいや趣味を持って欲しい。
私の母はとても家庭的で無駄遣いもせず、朝食で子供には目玉焼きをつけても、自分は味噌汁と漬物でご飯を食べるような人でした。生活が豊かになっても遊びにお金を使うことはほとんどなく、家を改築したり、家族に外食をさせてくれたり、父に車をプレゼントしてくれたり、家族に対してお金を使ってくれました。自分や子供の服を縫ったり、セーターを編んでくれたりすることもありました。楽しみは小説を読んだり、テレビドラマを見たり、近所の方とお茶を飲んだり、料理上手な方から新しいメニューを習ったり、庭の草花を綺麗に保つ事などでした。時々近所の方から誘われて、体操や華道などを一時的にすることもありましたが、長く続けることはありませんでした。母は家族絡みのことには一生懸命だけれど、母自身の楽しみや活動が殆どない人だったと言えると思います。それが悪いとも思わないし、してくれたことには感謝もしています。しかしもっと家族とは別なところで趣味を持ったり、そこで人間関係を広げてくれるような人であってほしかったですね。その方が話題も広がるし、家族以外の人と接することで人間的にも広がりが出て、家族に対する接し方も違っていたのではないかと思うのです。家庭にこだわり、過干渉によって子供を萎縮させるより、家庭外の活動に目を向けて欲しかったと思います。私の同僚にかなり自由に生活をエンジョイしている女性がいます。家事は夫任せでスポーツクラブに毎日のように通い、飲んだり食べたりもかなり自由です。子供たちは母親を反面教師にしてママのようになりたくないと言い、自分でセーブするところはセーブし、仕事も勉強も趣味も自由闊達に生き生きと頑張っています。母である同僚は経済面では子供たちを支え、子供がやることに口出しせず、叱るべき時はしっかり叱るにもかかわらず、親子の仲はとても良いようです。私の母のように昭和の始めに生まれた女性は家庭のことをきっちりやることが当たり前でしたし、その考えに縛られていたとも思います。家庭のことをすることは悪いことではありません。必要なことです。でも家庭からちょっと離れて、たまには自分の楽しみを見つけて楽しみ、子供へ向ける心を少し弱めた方が、本当は家庭の中がうまくいくのかも知れませんね。
【知らず知らず母と同じことをしている私】
私は母からされたことが深い心の傷となっているにもかかわらず、きょうだいやその子供に対して、母と同じように、きちんとした生活をするよう執拗に注意をし、コントロールしようとしていたことに最近になって気が付きました。自分が正しいと思いこんでいる自論を展開して人を傷つけていたにも関わらず、長年に渡って気がつかなかったのです。愚痴を言う同僚に対しては「文句ばかり言って…」と心の中で思い、励ます言葉はやっと絞り出す感じ。私自身が苦しい時、悲しい時に共感や優しいことばで励まされた経験が無いので、こういう場合に手本とする言葉が浮かんでこないのです。遊びを通して人と関わるという発想もないので、周囲に対してはきちんとした生活を強要することが当たり前だと微塵も疑っていませんでした。母のようにきちんとした生活を送り、家の中をきちんと片付けること…それが一番大事だと思い込み、そうしない家族を同居しているわけでもないのに指摘していました。ずっと後になって、傷ついた私と同じ思いを家族にさせていたのだと気が付きましたが、時既に遅し。手遅れでした。自分の楽しみや、やる事を見つけられずに、家族に構うことしかなかった母と同じことをしていた自分に呆れました。長年にわたって刷り込まれた考えを改めるのは容易ではないと思いますが、この先は私の心の傷を癒やしつつ、家族や他人には優しく接し、思考の誤りを修正し、少しづつ新しい自分に変われるよう、自分を作り替えるつもりで行動していきたいと思っています。
ここまで読んで頂きありがとうございました。どのような感想をお持ちでしょうか?私は親の悪口を世間に公表したいわけではありません。私の不幸が全て親のせいだと言いたいわけでもありません。親ガチャという言葉がありますが、子供の教育に興味がなく、勉強の妨害をする親の元に生まれたのも私の運命なのだと思います。でも運命の一言で片付けるには、私の過去はあまりに過酷でした。生きることがとにかく辛かった。私と同じような境遇にある子供さんを応援したい気持ちと、私の親と同じことを子供にしている親御さんに少しでもわかって欲しくて、このブログを書かせて頂きました。きちんとした生活をしている親御さんほど、自分は間違っていないと思いがちだと思います。でもその「きちんと」が、子供に対する過保護過干渉になることで、子供を無気力にして精神を病ませることになるのだと気づいて欲しいし、子供からの信号を無視し続けることで、子供から強く恨まれてしまうことに気づいて欲しいのです。過保護過干渉は子供にとって良くない…だけでは伝わらないと思い、色々な事を思い返しながら詳細に書かせて頂いた結果、こんなに長い文章になってしまいました。親子の関係は多面的で複雑です。私は親に対する好き、嫌い、感謝、憎しみなどの感情を抱えながらも、親を嫌いになりたくないと思って生きてきました。しかし相反して長年にわたり私の心を苦しめたのは、他人からのいじめより母からの仕打ちでした。母が逝去して二十年が過ぎ父も高齢です。私自身も歳を取りましたが、今回このブログを書くことで、親に対して新しい発見もありました。戦前生まれの両親とその子供の話なので、現代の親子関係にお役に立つかどうかわかりませんが、根本は同じところにあるような気がします。悩んでいる方の何かのヒントになれば幸いです。
最後に他界した母へ私からのメッセージです。
お母さんへ
私を生んで育ててくれてありがとう。
いつも美味しい料理を作ってくれてありがとう。
かわいい服を手作りしてくれてありがとう。
家族のために働いてくれてありがとう。
病気の時に看病してくれてありがとう。
だけど私は苦しんでいたんだよ。
やることなすこと否定される度に、心の傷が増えていったんだ。
私がやろうとすることを奪われる度に、お母さんに対して怒りが積み上がっていったんだ。
前向きな努力をしようとするといつも妨害していたよね。いったい何が楽しかったの?
私が勉強している時、何も言わずにそっとしておいてくれたら…
もっと子供の話に耳を傾けてくれたら…
もっと私の苦しみに寄り添ってくれたら…
もっとお母さんを好きになれたのに。
あなたを憎まなくてもよかったのに。
私の心はズタズタだった。崩壊寸前だった。
そんなこと大したことない?
私はこの世からいなくなりたい気持ちになるほど悩んでいたんだよ。
あなたを傷つけたくなるくらい悩んでいたんだ。
もう私の気持ちを伝えることはできないけれど、お母さんが生きているうちにわかって欲しかった。
そうすればもっとあなたを慕い、懐かしみ、感謝出来たのに…。
コメントを残す